ほぼ毎日、iPhoneのボイスメモで録音をして、その声を動画に組み込んでいる。
今日はたまたま書店で「昭和40年男」という雑誌を見かけて買って帰り、そのディープな内容に笑ってしまったせいもあるのだが——
——わたしが親元で過ごした昭和40〜50年代は、カセットテープはもちろん、家によってはオープンリールの録音テープすら存在していた。ラジカセはもう少し後になってから一般的になったように思う。
父が機械好きだったこともあり、小学校のイベントで朗読をすることになったとわたしが言えば、父は「何度でも上から録音しなおせるから、自分の声を聞きながら、何度でも練習を」と、わたしの前に古いテープレコーダーを置いていったものだ。カセットテープが1個はいるだけなのに大きなボタンとスピーカーがついていて、サイズとしてはA4ノートを少し小さくしたようなものだったと思う。あれが普通だった。ウォークマンが出たときにその小ささに驚いた世代である。
さてその小学生時代のことだが、何度録音しても、自分の声が自分のものであるようには感じられなかった。人にそれを何度も話した。わたしの声はこんなんじゃない、と。だが人は、みんなそう感じるものだから仕方がないと言う。「録音した声は、発するときに自分の内側と外側と両方から聞いている声と、録音されたものは違うから、味気なくて違う声に聞こえるものだ」と言う人もいた。それでもわたしは、そういうものだと思うことができずに、「こんな声ではない」と、言いつづけた。わたしの感じていた違和感はかなりのものだったのではと、ぼんやりだが記憶している。
それから何十年も生きてきて、そういえばこの数年は毎日のように声を録音しているのに、子供のころに言いつづけていたような「こんな声ではない」を、一度も感じなくなったなと、気づいた。媒体がテープではないからなのか、わたしが慣れたのか。
おそらく、慣れたのか…という気もする。東京に住むようになって数年後、NTTが民営化した。それまであまり使う人のいなかった民間家電企業製の電話機も、どんどんシェアを伸ばしていったし、各社が競って留守電を開発した。当時の留守電はテープ式がほとんどだった。わたしも周囲も、ひとり暮らしの人間は留守電を入れていた。そしてみんなたいして用もないのに録音した。抵抗感がどうのと言っている場合ではなかった。おそらく、そのとき慣れたのだろう。
多少は、技術も違うのだろうか。わたしが子供のころに感じていた違和感の大きなものは、丸さがなくなっているというものだった。声にはいろいろな要素がたくさんあるはずなのに、平らになっている、と。
これはたとえば、適切に乾かすことができれば本来はふんわりしたタオルがあるとする。それを洗ったあと、いったん旧式の脱水棒に通したような(←大昔は、いまで考えるパスタの生地をのすようなイメージの、棒と棒のあいだに洗濯物を通す脱水方法があった)、いうなれば「力業での無理な圧縮があったのかもしれない」、という想像だ。
まぁ、おそらくは、わたしが慣れたのだろう。いまとなっては、何もかもが懐かしい。