最近はどんな商品が事例として使われるのか不明だが、80年代ころは親世代に対して「気持ちがくじけるようなことがあっても、宗教で騙されて壺を買っちゃだめだよ」と言っておく話が、(冗談交じりの事例も含めて)けっこう巷にあふれていた。壺を買わされるという表現だけでも「霊感商法」とセットになって連想された。
(普通は「壺を買う」であって、「買わされる」ではないので、なぜ買わされるのかといえば騙されて、という連想である)
別に壺でなくてもよかったと思うのだが、あのころ実際に事件になったり会話で引き合いに出されるのは壺が多かった。騙されていたとしてもインテリアになるとか、水を入れれば花瓶になるとか、そういった思いから騙す側と騙される側の双方に気楽さがあったのだろうか。これが掛け軸だったり絵画であれば、現物を見た親戚らが不審に思ってすぐ専門家に相談するなどの可能性もあるが、壺は自然すぎるために、「まさかこんなものに何十万も何百万も払ってないだろうし」と、気に留める人が少なかったのかもしれない。
わたしは幼少時からしばらくのあいだ、怪談ほか、いまでいうスピリチュアル系の話が嫌いではなかった。そして田舎の実母は民間信仰や怪しげな話をよく知っていた。こちらからせがまなくても奇々怪々な噂話(どこそこ町にこんな恐ろしいことがあって〜)を、聞かされたことがある。いまから思うと昭和ならではのレベルだったが、子供心に目を輝かせて聞いていた。
あのままならば、わたしも実母も、将来は壺のカモになる可能性があったのかもしれない。
ただし幸いなことに、実母は現在でも呆けていない上、家族間であっても金の貸し借りを渋るような傾向が以前からあったため、今後どんなことがあったにせよ、他人の言うままにカネを払うことはない。まして加齢により体の自由が少しずつ奪われ社交の機会も激減し、不審な人間は近づけない。それだけはたしかだ。
そしてわたしもまた、かつてのオウム真理教の事件により「スピリチュアルがどうの〜とおもしろがっていると、こんなばかが大量生産されて実際に大事件を起こすんだ、あほらしい」と、激しい衝撃を受けた。そのころ好きだった創作の傾向まで、その後は変わってしまった。
とりあえず、自分は壺は買わない…と信じたい。
ただ、自分自身も年齢が高くなってきて、心のもろさを感じることが増えた。生活のことなどをあれこれ考えるとき「こんなことまでがいちいち不安になるんだ、さらに高齢になったら何もかもが怖くなるかも」という危機感もある。そんなときに壺以外の何かが提示されて、コロッと騙されてしまわないよう、ちょっとくらいでは動じない強さをいまのうちから築いておきたい。