外国のドラマや映画を見たいとき、配信サービスで吹き替えと字幕が選べる場合は、字幕を優先する。吹き替えは苦手であり、少し待っていれば字幕が選べそうということであれば、日付をずらしてでも字幕を待つ。
なぜ吹き替えが苦手か——。とくに女性で感じるのだが、実生活でこんなしゃべり方をする人はいない(抑揚、誰かに媚びたり相手を小馬鹿にするかのような独特の発声、または躊躇や言葉選びの際の不必要なほど艶っぽい「溜め」)と思えるものが、吹き替え作品では数十年にわたってまかり通っている。その風潮が、好きではないのだ。
これは声優さんが悪いというのではない。独特の「吹き替え台詞文化」のようなものがずっと確立されてきていて、わたしはそれが苦手というだけだ。そして声優さんたちはその流れにあまりさからわわずに(あるいは極端に自分らしさを出すことを控えつつ)お仕事をされているのではと、想像している。
この役者の台詞をこんな風な日本語にして(翻訳)、こんな風に発声して(吹き替え)という段階で、すでに2回のバイアスがかかっている。つまり意図のあるなしに関わらず、もとの素材を決まった表現方法の型にはめてしまうということだ。さらに、会話している人々を日本語で表現し直す場合、そこに性別の違いや年齢差があれば、バイアスがかかる率がさらに高まる。
話者より少しでも社会的地位が高そうならば、日本語訳では相手を呼び捨てにしない、職場のシーンならば名前や名字ではなく役職で呼ぶ、などの変更だ。そこから醸し出される雰囲気がはたして元の映像作品と近いものなのかという疑問を、わたしには常にいだいている。
字幕ならば、自分の知らない言語作品であったとしても、声の雰囲気や間合い、気迫についてはそのまま伝わってくる。
わたしは、字幕を好む。