物事の事実関係がはっきりしないとき、とりあえず立場の弱い側をバッシングする人々がいる。
たとえば沖縄で眼球を損傷し失明した高校生と、その場にいた警察官の言い分が異なっていること。沖縄県警から正式なコメントが出ていない段階であるが、高校生が警察官に疑われるような立場だったと思いこんだ、攻撃的かつ心ない噂が多数あるという。
沖縄の基地問題についても、中央が沖縄の民意を無視し、ごり押しをつづけている問題に関して、誤った噂を事実であるかのごとく決めつけて流す人々がいる。
事実かどうかわからないことであっても、大きな側に逆らうとろくなことがないとい心理なのだろう。保身を通り越した、ある意味で恐怖のようなものに動かされているのだ。
そして最近この流れが、選択的夫婦別姓に反対する人々にもつながっているように思えてきた。
選択的夫婦別姓の制度化を願う人々は「選べるのだからいいじゃないか、同姓にしたい人は同姓でいいじゃないか」と、それが売りだと思って声高に語ってきたし、相手にわかってもらえていないのはその点だとずっと思ってきたはずだが、実は、大きな側につねに付いていたい人にとっては「選べることが困る」ということは、ないだろうか。
言い換えれば、反対と思っている人には、自分で選びたくない、判断したくない、どちらが多数派かわからないと困るという漠然とした不安を感じる人が、いるのではないだろうか。
この国における同調圧力の事例を多くの人が身をもって体験しているが、それがなくなることが想定できないから、多数派になれなかったら少数派になる、少数派になるのは怖い、という図式が頭に浮かんでしまうのではと想像する。
なぜこう考えるに至ったかについては、推進する人に対して投げかけられる心ない言葉に、もはや内容ではなく書き手を敵視しているとしか感じられないことが多々あり、(選べるようになったら)同調圧力で自分の意思に反することがおこなわれるかもしれないと、恐れているかのようなコメントを見かけることが、数回だがあったため。
(より正確に書くならば、現在の日本の状況で96%の女性が改姓していることそのものが同調圧力であるが、建前だけでも「どちらかの姓」という法律になっているため、夫婦が自由意志で選んでいるという詭弁がまかり通っている)
このところTwitter等で意見を読み、もはや自分が別姓/同姓どちらを選びたいかではなく、選択肢を作ろうと言っている人たちそのものが「静かだった日常を乱す人」として、敵意の対象になってしまうこともあるのではないか——と、考えるようになった。
ならば、推進派は「選べるんです」の表現が万能薬ではないことを認識し、別の手段からも多角的に検討しなければならないと思われるが——ただし、わたしには「選べる」という言葉に魅力を感じない人とは接点が少なすぎて、よい考えが浮かばない。
同調圧力がなくならないという前提でものを考える人が減れば、多くが幸せになれると思うのだが、それは短期間で成し遂げられるものではないだろう。ならば、どういう突破口があるのか。
夫婦別姓の制度化を願う声は、わたしが気づいているだけでも30年以上の歴史があるが、30年でも、まだ道半ばなのだろうか。待たされすぎた人々が、すでに大勢いる。