この話は以前に書いたのではと検索してみたところ、やはり2012年の6月に書いていたことがわかった。
わたしはそのころ心に余裕がなかった。「ぼーっとした時間を過ごす」ことがいかに得がたい贅沢であるかを実感し、そして渇望していた。だが、自分が子供時代に親に言ってしまった言葉が何度も何度もよみがえっていた。
幼少時からですら自分が「生き急いで」きたことを実感している。そういう性格は、すぐにはどうこうなるものでない。
義母が施設に入所した2019年から「もう終わった、休んでもいいんだよ」と自分に言いきかせてきたはずが、その後もどう休んだらいいのかわからずに気持ちが空回り。そして新型コロナのパンデミックに突入。そうこうするうちに、昭和の基準で考えれば「もうすぐ高齢者」の年代である。現在では70代でも働く人が増えているが、昭和の昔は50代後半くらいから退職金を手にして引退する人もいたのだ。
するとここでまた焦りが出てくる。もうすぐ気持ちの余裕も減り、体の自由も制限されていくだろうが、わたしは何をして過ごしてきたのだろうと。何か大事なことをしておくこともできたのでは、と思うことがある。
ぼーっと過ごしている日がある。それが念願であり、10年前はほしくてたまらなかったものなのだ。だからそれでいいではないかという気持ちと、正体がはっきりしない、漠然とした焦りと。さまざまなものが交互にやってくる。
10年後にまたこんな話を書くのだろうか。そのときわたしは何をしているだろう。