疲れているときの軽い居眠りのような状態では、どこまでが現実(うつつ)で、どこからが夢なのかが自分でわからないことが多い。たとえば先日、電車の中で睡魔に抗えず少し寝てしまったのだが、そのとき妙なものを見た。
東京駅から始発で座れた中央線快速で、椅子は暖かいし、座れてよかったなぁという安心感から、うとうとしそうに…。だがお茶の水を過ぎればおそらく混雑してくるので、神田とお茶の水くらいはともかく、混雑してきたら寝ずにいたほうが無難だなと思ったときだ。おそらくお茶の水か四谷だったと思う。
電車が停車し、人が乗りこんできて、そろそろ発車というタイミングで、とてもあり得ないような身のこなし、まるでローラースケートの靴でも履いているかのようななめらかさで、中年女性がドアから座席中央(7人掛けの場合で考えればあいだの席ああり)まで、素速く移動してきた。その動きからして、てっきりそこが空席だからダッシュしてきたのだろうと注目すると、小学校低学年くらいに見える男の子が座っている。その中年女性は、前の子供が他人であるにしては密着しすぎるほど(お互いの足先が当たりそうなほど)近づいていて、異様に思えた。知り合いでなければ失礼なレベルの接近だが、もしや何両目のどこに知り合いの子供が乗っているか知っていて駆け込んできたのかとも考えた——。だが子供のほうはその女性を見て笑顔を見せるどころか、わたしが見たかぎり、目を合わせないように視線を泳がせている。
これは何らかの迷惑行為なのでは、しっかり注意していないと子供が何かされるのでは…と思ったところまで覚えているのだが、ほんの少し居眠りしたあとで目を開けると、その子供のいた席には(同じ人物かどうかはわからないが)中年女性が座っていた。中央線の快速は1駅が5分くらいだと思うので、わたしが5分以上寝ていたのならば子供が降りて女性が座ったのだろうし、もし数分ならば子供が雰囲気に負けて席を譲ったのかもしれないし、あるいは「最初から最後までわたしの夢だった」可能性も捨てきれない。
ねんのため、下車した直後に連れにそれを話すと、夢じゃないのと軽く言われてしまった。
仮に夢であったにせよ、わたしがそれを見てかなり危機感をいだいていたことは、生々しく記憶している。
だが危機感をいだきながらも居眠りできるのかという疑問はある。それどころではないはずなのだ。わたしはその子供をけっこう心配していた。
だがこの件を思うと——。いつも流し読みしている実話怪談系の短編集で、「怖いと思ったら記憶がなくなり気づいたときはどこそこにいた、というオチが多くて物足りない」と、自分がいつも感じていることを思い出した。都合よく記憶が途切れる話ばかりだ、と。
考えようによっては、記憶が曖昧になってしまったり、途切れているからこそ「もしやすごく怖い事実がそこにあったのではないか」と、自分の記憶の曖昧さから後付けで話を膨らませるきっかけになることも、あるのかもしれない。
もしそういう話も、世の中に出まわっている実話怪談系の話に含まれているのなら、わたしはいくつでもネタを提供できそうだ。