あの震災から5ヶ月。いまだに消息不明であったり、ご遺体が身元不明である方々が多い状況だが、人はそれでも日々歩きつづけ、生きていかねばならない。
もうじき、認知症の義母を東京の自宅に引き取ってからの暮らしが、ひと月になる。そのきっかけとなった義父の突然の死は、震災にも多少の関係はあったと考えている。
義父の生まれ育った場所と、義父母が結婚当初に住んでいた思い出深い界隈は津波で壊滅的な被害を受けた。最初の数日は停電でテレビを見ていなかっただろうが、津波映像は一週間以上も放送されていたと思うので、心を痛め、衝撃を受けたたことは間違いない。
以前から認知症で、ひとりでは何もできなかった義母の願いは、盛岡の近代的な暮らしを捨ててその土地にいつかもどることだった。それが義父の願いでもあったのかどうか、あるいは義母の思いにおされたのかはわからないが、ふたりは月に1度程度は、両方の家をせっせと往復していた。
自宅もある程度は被害にあったかもしれない、それを見て衝撃を受け、新たに生活を立て直すことに疲れるよりは、盛岡で「家は無事なはず」と信じつつ様子を見たい…そんな思いが、義父にあったのではないかと想像する。けっきょく震災以来一度もその往復はないまま、こころと体が疲れて、7月の頭に義父は亡くなった。死因は睡眠中の心機能停止。
震災の日から5ヶ月と書いたが、多少は語弊がある。人によっては地震の当日ではなく、じわりじわりと生活に影響が出てきた場合もあるかもしれない。たとえば命や家財は助かっても、周辺の取引先などがすべてなくなってしまえば生活基盤がなくなる、それが実感されてくるには数日以上かかっただろう。
何かや誰かのせいにはしたくないし、現状は現状としてきちんと受けとめていきたいと思うが、たまに頭の中に「もしも」がよぎる。
あとになって知ったが、身近な人には義母の認知症をこぼしていたらしい義父が、それに気づいたとき病院に連れて行ってくれていたら、いまここまで進行してはいなかったのではないか。
そしてあの震災がなかったら、わたしたちの現状も、少しは違っていたかも。
ときどきそんな「もし」を考える。だがわたしは、誰を恨むつもりもないし、これからも日々を生きて行く。
3月11日、忘れられない日です。
あの悪夢のような日から5ヶ月が過ぎ、未だにご遺体が見つからなかったりして区切りを付けられずにいる方々のことを考えると心が痛みます。
地震直後からライフラインが整うまでの数週間といったら、何とも言えない本当に大変な辛い日々でした。
電気はいつくるのか、支援物資くるのだろうかとじーっと待ち続け、自分の安否を心配してくれている人たちにも連絡したくてもできない。
とにかくその日を生きるが精一杯でした。
ライフラインが整った後は、そこから再建へ向けて少しずつ考えられるように気持ちが切り替わっていったという感じです。
震災で大きく生活が変わってしまいましたが、生かされた者はそれを乗り越えていかなければらりません。
私も老いた父と母を抱えて、震災の片付け等も一人でしなくていけませんが、負けずに生きていくつもりです。
わたしも、ゆまりさんのことは、ずっと気がかりでしたので、何週間かして「電気が復旧したからまたパソコンをはじめた」とおっしゃって、リヴリーの島でお会いしたときは、飛びあがって感動しました。よかった、生きてらしたんだって(←失礼、でも、すごく心配でした)。
いろいろご苦労がおありと思います。もともと、この数年は東北のほうで地震が多かったですし、暮らしを建て直しては災害がくる…といった感じでしたでしょう。ほんとうに、ご苦労なことです。
これからも、無理しすぎない範囲でがんばって、生きていきましょう!