人は年をとるにつれ、考え方が変わる。
全般的に丸くなっていくのかもしれないし、ある面ではがちがちに偏屈になっていくかもしれないし、若く信念のある人から見たら長いものに巻かれているような気もするし——。それらをひっくるめて本人が「よし、視野が広がってきたぞ」とポジティブに考えられるのか「年をとったな、ふっ」で終わるのかはさまざまだろうが、とにかく人の考えは変わる。
誰でも多少はそうだと思うが、熱心に何かを言い出す時期がある。「合成洗剤って環境に悪いじゃないか」とか「割り箸ってどう」とか「カネはらって添加物をわざわざ食べることないじゃないか」とか。。。そしてそんな時期(自分がすごいことを口走っていると思う時期)に、周囲の誰かがぼそっと「けっきょく自己満足だよね」とか「企業のうたい文句に騙されてるだけ」とか言うと、思いきり水をさされた気分になり、何この人さめてんのと、人前で喧嘩しないでおいてやるだけこっちは大人だねなどと、口にしなくてよかったのは自分のほうなのにそんなことも知らずに、まじめに憤る(苦笑)。
だが、場合によっては、自己満であったり、躍らされているだけなのも事実だ。たとえば大きな例として、バイオエタノール。化石資源を掘り尽くすより植物からエネルギーをとったらどれだけエコでしょうとか、その程度の発想から見切り発車したに違いないが、世界のあちこちで何が行われているかを考えたら、正気の沙汰ではない。食用にできる耕作地でバイオエタノール用のトウモロコシを作ったり、しかも作ったら作ったで「たいしてエネルギー効率よくなかった」とか。それって、作る前にもう少し考えたら、わかりそうなことだよなぁ…?
自分は何か世の中のことを考えているんだ、それを何か行動に移したいと思うから、仮想敵を作ってそれを追いかける。大規模なところでは”緑のお豆”さんたちもそうだし、日本だけではないだろうが、普通の市民たちがある日「これ(この商品)は環境によくないはず」と騒ぐと賛同者が出て、それなら不買運動はどうだろうという流れになったり。
白状する。
一時期、わたしは合成洗剤が嫌いだった。使う人が減れば何か世の中が変わるのかと思った。これは、いろいろあって、少しずつ考えを変えた。
そしてこの数年、乳化剤で白い姿を身にまとっているが実は植物油のホイップクリームたちが、大嫌いである。飲食店の珈琲に添えられてくる白い液体が乳脂肪かそれ用のアブラかを知ることは難しいので、それは気にしないことにしているが、家では必ず珈琲には牛乳を使っている。誤解しないでほしいが植物油は天ぷらなどの料理に普通に使うので、食べたくないのではなく、白い化粧をして乳脂肪のふりをするその態度が気に入らない(!?)のである。
これについては、今後もずっと嫌いでありたいのだが、先のことはわからない。
考えがずっと変わらないであろうものは、レジ袋。これを好んで何枚も受け取ろうとする人の気が知れない。できるだけ、もらう枚数を減らそうとしているが、中には「ここの店は袋でお金とらないのよね、ほかの店は、お金とるのよ、ねーあなたも困るでしょ」と、近くにいただけのわたしまで勝手に仲間に入れて、うなずかせようとする人もいる。こういうのは何とかしてほしい。レベルが低すぎ。
考えがまとまらないのは、割り箸。
割り箸は、国産品に関してはとくにそうだろうが、割り箸のために木を切り倒しているわけではなく、余剰木材の有効活用という側面がある。全体の割合としては少ないだろうし、輸入物のことはよくわからないが、日本の国内産などにはそういう事例もあるはずだ。だから、別にいいじゃないか…とも、思う。
ただし割り箸は「もらって当たり前」の生活習慣、「道具を使ってすぐ捨てる」という発想にも結びつきやすいわけで、人の生活のクオリティとして単純に考えると、あまり望ましくないような気もしてくる。これはいつも、引っかかっている。
もちろんそんなわたしでも、需要があるからという理由で、諸外国から安価な木材製品(わざわざ割り箸のために伐採された樹木での製品があるのならとくに)が今後も増えるのなら、ノーを突きつけなければいけないと思う。売り手側から「たくさんある、安いよ」と焚きつけられて増える需要は、ほんとうの需要ではない。割り箸が当たり前ではないという視点に一度立ってみて、それでも(余剰木材などで作った)割り箸が見直されるなら、それがほんとうの需要だろう。
それにしても、かつて水を差す人間を心の中で「さめてるやつ」と思っていた自分と、見当違いかもしれないことに熱くなりすぎている人たちを見ている自分。これは、大人になったということなのだろうか。答えはまだとうぶん出ないだろう。