わかりやすく書けば、「言葉のインフレ」ということだろうが、重いはずの言葉を軽く使う人が増えると、意味が弱まって価値を失ってしまう。たとえばよく週刊誌の見出しにある「○○(芸能人名)号泣」とか、「○○(スポット名)潜入」であるが、ほろっとくる話という程度で号泣の使用はありえないし、取材許可を得て正式にカメラを向けて潜入はありえない。
天地神明という言葉を釈明に使った有名人をふたり知っている。ひとりはタレントで旧アナウンサーの女性。不倫ではと問われてそんなことないというときに使った言葉。そして今日は、先月かなり話題になった音楽関係者の方である。
聴覚障害は事実なのかとか、そのあたりの話で今日は記者会見をしていたらしい。少し見たが、予想される質問への答えを何度も心の中で練習し、度胸をつけてから登場したかのような印象を受けた。不自然さと冗長さと、それでいて場をうまくまとめられない焦りのようなものとが感じられ、見ていて愉快ではなかったのですぐチャンネルを変えた。
お詫び会見ならば、お詫び以外のこと(誰それを訴えるなど)は別の機会にすればいいし、あるいは訴えるなどとその場で言わずに、ただ実行すればいい。
あるいは何が事実であって何が違うのか、それをはっきりさせたかったのであれば、今後も音楽の道でやっていきたいという強い意志を表明するのでもないかぎり、「違ってたんです、あの人(たち)失礼です」だけ言ったところで、はあそうですかという話になるだろう。そんな話は10分で切り上げてもらってけっこうと思う——どうも、人に聞いた話だと、2時間くらい会見していたらしいが ^^; 。
それから、わたしが聞いていた範囲(要約編集されたもの)だけで、2回か3回「科学的に」と聞こえてきた。聴力検査が脳波測定でおこなわれたものであり正確であるという意味合いだったのだろうが、数字からすると障害者ではなく難聴(聞き間違いのリスクはあるが会話は成立する)であるという認識の人々と、一般人よりは聞こえないことが立証されたとするご本人のあいだで、かなり温度差があるように感じた。
何はともあれ、言葉は大げさすぎず、ただ丁寧に話すことが、ほとんどの場合は人によく通じるし、真剣に話していると評価されるものだと考えている。