3年前の震災の日。わたしは1階にいて、テレビをつけたまま、なにか台所の作業をしていたように思う。揺れがとまらず、いや、むしろ大きくなっていって、食器棚を案じていた。午前中に病院で初めて大腸検査を受けヘトヘトになっていた家族は、2階で昼寝していたが、ほどなく駆け下りてきた。ふたりでじっと、揺れが去るのを待った。テレビをつけた。ただごとでないのは、映像を見なくても感じていた。
宮城や岩手の沿岸がテレビに映った。夜もずっと、炎があたりをうねりながら照らしていた。余震もあった。そのたびにご近所で警報のような音が響いた。怖かった。
画面を通じて見ていただけの人間が、体験したかのようにあとになってから言葉を紡ぐのはどれだけ申し訳ないことだろうと思うが、テレビに映る沿岸の映像は、やはり、恐ろしいものだった。そのころ、立ち直れるとか、立ち直ろうという気持ちは、多くの人にとって現実のものではなかったと思う。ただ単に「終わっていない、まだ終わっていない、揺れるかもしれない、まだ何かあるかもしれない…」そんな気持ちが残っていた。
翌朝、早いうちに、田舎(北関東)の母から電話があった。地震のあと数時間して、ご近所一帯がすべて停電したという。やや山沿いにあるため、市の水道設備は付近をくまなく電気で管理していたようだ。大元のポンプが止まり、一帯がすべて電気も水もなし。寒くて凍えそうだったという。母はてっきり世の中がすべてそうなのだろうと思っていたようで、わたしに「たいへんだったね」と同意を求めるが、東京のわが家で感じたのは恐怖だけで、電気は止まらなかった。暖房が使えていた。申し訳ないような気持ちがした。
その後も母のところは順番で停電が決まっているという。いっぽう東京23区内では、ごく一部を除いて輪番停電はなかった。あまりに気の毒になったので、家にあってあまり使っていなかった湯たんぽを送った。そのころにはクロネコが動いていた。北関東までの荷物はさほど影響が大きくなく、数日で復旧したように記憶している。
余震がずっとつづいて不安があっただけで、23区内のほとんどではライフラインに問題はなかった。人口が少なくて停電させても電力確保にどれだけ効力があるかという関東の市町村では、輪番停電があった。申し訳なかった。
盛岡市の義父母(とくに義父)は、あとになって思えば、ふたりとも認知症が悪化していたところに、震災で生活への気力を失った。沿岸部にあった自分たちの家(古い家でセカンドハウス扱い)のすぐ手前までが津波被害で何もなくなった映像を、日々テレビで見つづけたのだろうと思う。言動はさらにおかしくなってしまった。
震災から三ヶ月後、気力がなくなったことも影響してか、義父は突然死。認知症が義父よりもひどかった義母は何もできない人だったが、奇跡的にわたしたちに義父が死んだと電話をかけてこられたため、わたしたちは葬儀をして、義母を東京に連れてくることができた。
震災以降の日々で、たくさんのことに目が向いた。あれからの日々で、世の中はよくなっただろうか。いろいろなことに目を向けたはずの人々とが、同じつらい道(たとえば危険性があるものでも経済活動には欠かせないと原発を優先するような)に、進んでいこうとしていないだろうか。
人生設計や、日々の暮らしが大きく変わった人もいる。忘れてはいけないと思う人々と、つらくて悲しくて、忘れたいと思う人もいるであろう事実と、いろいろな思いが、3月11日という、この日にある。
最後に、わたしが2011年3月下旬から、9月ころまでevernoteに保存しておいた震災関連記事があるので、リンクしておきたい。どなたでもご覧いただける設定になっている。
→ https://www.evernote.com/pub/mikimarulog/public