たとえば家族や身近な人間が他界したとする。心の準備期間や前触れになることがあった場合には、突然の場合よりは、多少はつらさが緩和されるかもしれない(あくまで「かも」であるが)。だが実際に失ってみたときの心の空洞がいかばかりかは、そのときになってみないとわからない。
家族や夫婦で何かちょっとした習慣があるとする。自分だけが残されたとき、とてもそんなことはつづけられないと思うかもしれない。あるいは、時間が経ったらふたたびできるようになるかもしれない。苦しくて、悲しくて、ぽっかりとあいた空間に、うっかりすると何が代わりにはいりこむか、わからない。
幸運であれば、そこにはいるのは、新たな友人や温かいまなざしに満ちた人びとかもしれない。あるいは逆に、親切なふりをしてツボを売りに来る宗教がらみかもしれないし、立ち直れないままに手にした酒に、おぼれてしまう日々かもしれない。
不安に呑みこまれて、自分が自分らしさを失わずにいるためにも、人が希望をもって思い描くのが「目の前にいなくても、あの人は遠くで生きていて、自分を見ている」という状況ではないかと、わたしは思う。天国はそんなふうに、いま生きている人を助けている存在なのだと。
自分は誰かに見てもらっている、ひとりじゃないと考えることで、救われる気持ちになる人、誰かに温かく接してあげたいという心のゆとりが芽生える人も、いるはずだ。
悲しい事件があったり、人が人を苦しめること、そして貧困など社会のひずみについて考えるにつれ、大げさなことではないにせよ、それぞれが心の中に、ちょっとした明かりを持ちつづけることが、たいせつではないかと考えている。