最近の子供世代については不明だが、ある程度の年齢(仮に昭和40〜50年代生まれということにしておく)の人で、誰かと集まって集合写真を撮る場合、少なくとも若いころは「誰かしらピースサインをしていたものだった」と思う。
このところ、外国ではやらないことだから恥ずかしい習慣だとか、みっともない、子供でもあるまいし…といった否定的な意見を目にする機会が増えたのだが、今回このブログでは、やるものかどうかの是非はともかくとして「なぜあれをするのか(したのか)」について、考えてみた。
1) ひとつには、撮影してくれる人への合図。「もう撮っていいよ、さっさとシャッター押しちゃってかまわないよ」の意味。(←シャッターを押すというのも昭和の言葉 ^^;?)
2) 沈黙と、びみょ〜な間(ま)に、耐えられない。
いまはズームも簡単だし、その場の人間がぎゅっと集まって、顔や上半身だけを誰かのスマホ自画撮りで撮影することも可能だろうと思う。その場合は全員で誰かのスマホを見ながら撮影のタイミングがわかるので、これといって、みょ〜な間(ま)は、開かない。
だが大昔は、撮影と言えば「どこで撮ったかわかる背景と、全員の全身もしくは最低でも上半身」は、構図の基本だった。撮影者は2メートルくらい離れているか、へたをするとタイマーをセットして走って合流し画面に収まるということもあった。やたら時間がかかるものだったのだ。さあやっと撮影だとなったら、ちょっとくらい体が動いて何かをしてみたいという「間(ま)の対策」に、あれはぴったりだったのではと思う。
3) どんな顔をしたらいいか、自信がない
撮影だからといって、急に顔が作れないし、もしかしたら作りたくもない。だがあえてへんてこな顔で撮影されるほどでもない。とりあえず、明るそうなポーズをしておくか、ということだったのかも。
もう、誰かと集まってわいわいと写真を撮るなどという経験をしてしばらくたつし、今後も予定がないので、最近の事情はまったく不明である。