最近こまめに、英単語や短い英語文章を音読して録音している。あまり自分が普段使わない単語は、ネット上の辞書サイトやGoogle翻訳などで、音を確認する。多くの辞書サイトには「イギリス英語」「アメリカ英語」という具合に発音サンプルが分かれている。両方を聞く。やはりわたしにとって発音しやすいのは慣れ親しんだアメリカ英語だ。
慣れ親しんだと言っても、外国に暮らしたことはない。いまはどうだかわからないが、80年代はアメリカ英語を教材として頭にたたきこむ手段がたくさんあって(ラジオ番組の「百万人の英語」ほか、多くの音楽番組では英語と日本語のバイリンガルな人々が出演)、アメリカらしい英語を拒否してそれ以外の英語を身につけるのは、逆に言えばとても難しかったと思う。そして、単語やイントネーションを混ぜて覚えることに何の意味も見いだせなかったわたしは、なりゆきではなく自費を出して選べる場合であっても、米語の教材を入手していた。
英語を毎日のように体にたたきこもうと努力してから約30年。以前ほどには英語になじみがない暮らしだが、そんないまでも、テレビ番組やHuluから流れてくる言葉で、よそ見をしていても頭にはいってくる単語があるとしたら、それは米語のほうだ。イギリスの番組は、まじまじ見て意味をとる。
このあいだ「7カ国語をモノにした人の勉強法」という新書を、何回も何回も休みながら、ようやく読み終えた。
別にすごく感動したわけでもないし、わたしがきちんとその本を理解した、あるいは共感したというわけでもないのだが、とくに印象的だったのが、音の重視。
語彙収集や「読み」だけをやっていても、言葉は上達しない。自分の気に入るテレビ番組や音の教材があったらそれらを集中的に視聴し、耳を慣らしてしまうのがよい。リズムがつかめてくれば、いざその国に出かけたり、あるいはその言語の話者に囲まれたとき、気持ちが「○○語モード」になりやすくなる。読み書きをおろそかにしてよいというのではなく、両者を切り離して考えず、なおかつ音声重視の学び方だ。
何ページ目だったか詳細は忘れたが、帰納と演繹(きのう、えんえき)についても著者は書いていたように思う。たくさんを吸収してそこから言葉を発するか、大まかな筋をつかんでおいて「この単語、この表現は通じるはずだ」と、あたりをつけるか。著者の推奨する短期間の集中は、もちろん後者の演繹である。日本での語学学習は、ともすれば帰納的になりやすいが、それではなかなか「表現する側」にたどりつけない。
…と、ここまで書いて、いつも思う。わたしはなぜ外国語を学ぶのが好きなのか(好きといってもモノになった言語はなく、かろうじて英語がそこそこ使えているかどうか…である)。そして、この本の著者のように、次はこの言語といわんばかりに習得していく人がいるのか。
こういった本を読めば「なんでなのか」がわかるような気がしたが、これまで本書もしくは本書以外でも、その答えはなかった。たしかに本書の場合は、わたしと違って着実に結果を生んでいるのだから(注:著者は大学で教えていて専門は中国語、ほかは必ずしも職務と関わりはなさそう)、理由など書くまでもなく「自分のような人間はどこにもいる」という信念があるのかもしれない。たしかに、どこにでもいるかもしれないが、努力が実った人は少ないだろうし、時間を割きながらも「なんでこんなことをしているんだろう」と悩む人間のほうが、多いような気がしている。
いろいろな言語のラジオ講座や教材に手を出したが、いまのところ、身近な国なのにまったく手をつけていないのは韓国語。だがそちらに手を出す前に、おそらく10年以上も前に投げてしまった中国語をやりなおした方がよさそうだ。