すべての消費が快感だとは言わないが(たとえば決まった場所にある自販機で毎日のように缶コーヒーを買うことが快感とはかぎらない)、おおむね、人はカネを払って何かをすることに快感を覚えているのではないだろうか。
それは別に浪費とはかぎらず、カネとブツの対価を楽しんでいるともかぎらず、たとえば時間をたっぷりかけて100円のものを選ぶことであったり、あるいは数千円かけて1時間の音楽を楽しむ行為かもしれない。
この快感のようなものの正体が、よくわからずにいる。だが確実に快感を覚える日がありそれは自覚できるので、存在することは間違いない。
その正体は、なんだろう——。自分のところに回ってきたカネというものを使って何かを体験し、結果として思い出(記憶)を増やしていくのが、楽しいのだろうか。美味しいものを食べるのも、よい映画を見て熱心に語り合うのも、また買っちゃったと思いながらTシャツを着るのも、すべてが体験であり、記憶だ。
ものを所有しすぎてはいけない。壊れてもいないのに次をほしがってはいけない。わたしは東京に出てきて数年くらいまで、そう考えていたのを覚えている。だがこの10年くらいのことを思い出せる範囲で書いてみても、たとえば携帯電話は契約期間というものがあって機種変更やプランの乗り換えがその期間の区切りのよいところでおこなわれないと手続きが面倒になったり、カネがかかったりする。パソコンのOSは古すぎるものを使いつづけるわけにはいかないが、そのためにはハードも適度なところで買い換える必要が生じてくる。世の中のいろいろなものが、こうしてくるくると回っている。人はいつか「自分が損か得か、面倒か楽か」だけの流れに乗っかってしまう。そうすると、実際にはとてもカネがかかる状態であるにもかかわらず、流れに乗せられている状態の消費について「日常的に見かけて買っているそこらへんのコーヒー自販機」くらいの感覚しか、いだかなくなってしまうのだろう。それらは快感ではなく必要経費、普通に存在するもの、ということになる。
これだけ日々カネを使っている都会の人間たちが、自分で選んで自分で買ったという感覚に飢えて、もっと楽しく何かを消費したいと、考えてしまいがちなのだろう。罪深いのは都会の売り手か、住む人間の弱さか。。。
そしてわたしは、明日に買うものはどれとどれ、という具合に、すでに心にメモしている。