ちょっとした理由で、1時間ほど前からあのイギリスの名作「ジェイン・エア」について考えていた。150年以上前の作品にいまさら「それネタバレじゃん」という意見をいただくとは思えないので、多少のことは勘弁していただきたい。
ジェインは、現代の女性として考えたとしても、設定にさほど違和感がない(自分でものを考える、正しいと信じる道について考える)存在である。不運なことに意地が悪い親戚に育てられ、あげくに劣悪環境の寄宿学校に放りこまれて少女時代を送るが、やがて貴族の家に家庭教師として雇われ、自立する。
いっぽう、彼女を雇った貴族の側とそのしばられている環境は、読者もしくは映像作品の観客が「これは150年前の世界だから、そういうものだったんだから」と納得させながら見ることができなければ、まるきり魅力がないし「かっこわるい」のである。このあたりの頭の切り替えがうまくできないと「こんなオトコでも好きになってあげるなんて、ジェインて偉いのね」になってしまうかもしれない(^^;。
どうしても曖昧に処理されてしまって解せないのが、貴族(ロチェスター)がジェインに隠し通そうとした妻の存在だ。日本語の説明サイトでは「狂人の妻がいた」で終わりにしてしまうこともあるし、その妻が館に火を放って自殺したというだけで、ロチェスターは妻に振り回された被害者であるかのごとく描いて終わりである。これは実に納得がいかなかった。
わたしは原作を30年以上前に日本語訳で読んだかもしれないが、ほとんど覚えていない。映像作品は何作か見ているが、ある作品では「だまされて結婚したようなもので妻と呼ぶにはほど遠い」と語られることもあれば、別作品では、狂人で暴力的である以上は普通の夫婦として暮らすことはできないと匂わせるばかりだったものもあるように思う。だがそこで、作中のジェインもおそらくそうだったと思うが「どんな理由があったにせよ、妻にした以上はその人が妻」と、考えるのが一般的である。これは150年前であろうと、現代社会だろうと、おそらくは同じだろう。
仕方ないので、英語で検索してみた。作中ではロチェスターが語るしかない妻の存在だが(妻本人は閉じこめられていて、たまに抜け出しては暴力をふるったり乱暴な行為をおこなってまた閉じこめられるため語るシーンがない)、そのロチェスターの言葉で整理するならば——
○ ジャマイカに暮らしていたスペイン系貴族の流れを汲む妻の家系には、精神的な病気や知的障害を持つものがいて、妻本人にもその傾向がもともとあったらしい
○ 妻の家族は財産をたくさんつけてでも、やっかい払いをしたがっていた
○ ロチェスターの父が、そういった詳細を息子に告げずにお膳立てをし、本人同士がさほど知り合うまもなく結婚させた
○ 教会は離婚を認めない、重婚もまた認めない、だから妻の存在を隠し通してジェーンと再婚したかった
——ということらしい。
こういっては失礼だが、めちゃくちゃ、かっこわるいのである (^^; 。そういう時代だったとか、相手も知らずに結婚することはあったなどの事情を、読者に雰囲気として共有してもらいたいというのはわかるが、ジェインが自分の頭でものを考えていることに対し、ロチェスターの器が小さく思えてしまってならないのである。
もっとも、フィクションにおいて相思相愛になる相手の両方が「かっこよい」存在であることは、普通はありえない。どちらかがダメちゃんであることで話のバランスがとれることは多い。
その点を考えてもなお…この「狂人の奥さん」の話をさらっと語って読者や観客に判断をゆだねるというのは、勝手に人々が想像してくれた150年前と違い21世紀においては、作品の評価を下げてしまいかねない危険な演出かもしれないと考える。とことんこの奥さん Bertha Mason について掘り下げてこそ、価値が上がるのではないだろうか。
余談だが、1960年代にジーン・リースという作家がWide Sargasso Sea(「広い藻の海」もしくは「サルガッソーの広い海」)という本において、この奥さん Bertha Mason の少女時代をモチーフにしたと思われる物語を、書いているそうである。いつか読んでみたいと思う。