概論として書こう。
SNSでもそうであるし、スマートニュースなどのアプリに見られるお好みニュースの集約インデックスが当たり前になってくると、とくに大手のブログサービスに属しているわけでもない個人のウェブサイト(たとえばわたしのこのブログ)のような存在は、それらサービスが見出しを拾ってくる題材として機能されやすくなるものの、見出しまたは出だしだけで満足してしまう方が増えることで、全体にじっくり目を通してもらえることは、なくなってきていると思う。
実際問題として、一部の抜粋だけを文字で読んでいるからウェブサイト本体まで確認に行かない傾向は、わたし個人にしても思い当たることだ。そして自分のウェブサイトは、どこもアクセスが落ちている。これはわたしがみなさんのもっとも好むバウムクーヘンの話題をこまめに書かずに溜めていることばかりが原因ではあるまい。見出しだけパパッと読んで通過していく人が、増えているのだろう。
仮に大手のブログサービスに属していた場合でも、アクセスは増えるのかもしれないが、問題は別にある。そのサービス利用者同士の相互訪問やリンク連絡などのおつきあい、はたまたアメーバブログのように規約が思いっきり自社に有利になっていて、個々の利用者が載せた文章や画像について個人の想像できる範囲を超えた利用法がなされる可能性が高い場合、リスクが伴う。わたしは完全無料のサービスでブログを書いたことはない。有料で契約しているプロバイダがおまけでつけてくれているサービスでは、少しは書いているが、いちおうそれらは文章も画像もわたしのものである。
自分もまた集約型のサイトを利用した上で、そのうち半分くらいしか元ネタ確認のために掲載元のブログをクリックすることがないのだから、おたがいさまである。だから一部でも読んでくださっている方に、ブログの細部まで読みにきてもらいたいと思っているわけではないし、そんなお願いをするのは失礼である。ただ事実として、このままでは言葉や文章「思いをつづった総合的な表現」は、そっくり何かの題材として一部を引き出しから引っ張り出されてはもどされ、すり切れ、その引き出しを見つめている表現者は、疲弊してしまうのではないかと、感じている。
なぜ、この世の中はこうも情報が多いのだろう。そして流れが速いのだろう。誰かが見守ってくれている実感が得られれば、わたしは流れにくるぶしまで浸かって水流に目をこらすのではなく、土手に背中をあててのんびりと足を伸ばしたい。そして何かを表現したい。そんな思いに、とらわれている。