もう新宿でこの映画を見てから2週間くらい経つのだが、いまだに思い出しては、世の中って捨てたものではい、まだまだいいもんだな…と何度もかみしめている。むろん、ストーリーの内容についてではなく「こんな表現方法があるんだ」という見せ方の問題と、それによっていくらでも新鮮な体験ができる見る側の問題だ。まだまだ映画には無限の可能性があるのだと、実感した。
ご覧になっていない方のために、できるだけ、ストーリーについては書くまい。
わたしが感動(!?)した点はいくつかある。
○ 荒廃した世の中というのに、そして冒頭では得体の知れないトカゲの親戚などを食すシーンが出てくるというのに、世界の一部には、この映画の舞台となる砦のような「水のある場所」が存在する設定であること。
そこではなんと青々とした野菜までもが育てられている。いったい誰がその恩恵を受けるのか。はて? ギャップに驚く。一瞬だけ混乱。周辺には砦からのおこぼれで水を落としてもらえないかとひしめく難民たち。内側には粗野で狂気に満ちた支配者たちとそれに従属する人々。野菜とか料理とか、そんな高級なものを上品に味わって食べるように見える登場人物がいる映画には思えないが、おそらくはその後ほどなく存在がわかる、支配者家族に囲われて子供を産むためだけに生かされている女性たちなど、「誰か」が食べているのだろう。
○ 砦の支配者である(中高年よりはぼちぼち還暦くらいの印象の)じいさま「イモータン・ジョー」。彼はまったく「いけてない」だけでなく、体も長年の疲労や皮膚のただれなどが著しいのだが、ただ命令だけして座っているようなキャラではなかった。陣頭指揮を誰にも譲らず「戦にはオレがいく」とばかりに、砦を空っぽにしてでも出かけてしまうフットワークの軽さ。
○ そしてイモータン・ジョーの出陣には、これがわたしの最大の驚きだったのだが、並んで爆走する車の前部に乗っているかのような状態で、炎とともにエレキギターを奏でる真っ赤なお兄さんが登場。陶酔しきった表情で、爆音を奏で、ときとして火を吹くのである。
なんというか、いや、この世界観にこの見た目のおにーちゃん、いったいこりゃなんだ、おもしろじゃないか、と。わたしと同じような発想をする人が仮に50人で映画のアイディアを出しあったとしても、このおにーちゃんは出てこない。世の中には、こんなことを考えつく人がいるんだと、その点にひたすら感動してしまった。
○ イモータン・ジョーに従う、ウォー・ボーイたちの設定も斬新。ともに戦いに出てその身を犠牲にし、かっこよく散ることができたらヴァルハラ(死者の館)に魂を連れていってもらえると信じているウォー・ボーイの若者(ニュークス)は、イモータン・ジョーに心酔し「目があった、目があった、こっち見てくれた!!」と、まるで武道館コンサートで主役が自分を大勢の中から見つけてくれたというかのように、うるうる感動するのである。いや、やはり、映画で描かれる以上に、イモータン・ジョーには、何らかのカリスマ性がある…という設定なのかもしれない…? わたしには、どうしても理解できなかったのだが。わたし個人の目に映る姿としては、いけてないにもほどがあるのだが、別の見方が、きっとあるのだろう。
最後に、これはまったく感動ポイントとは違い、単に疑問なのだが。
主役のフュリオサ(シャーリーズ・セロンが演じている女性)は、てっきり役職名をもらうほどに努力して這い上がりながら、皮肉な意味でフュリオサという名前を名乗るようになったのだと思っていた。fury は、激怒、憤怒である。だから「わたしは怒っている」という意味を、自らの名前に込めて名乗るようにしたのかと。
だが、幼いころからの知り合いに会えたとき、子供のころから名前はフュリオサだったとわかった。う〜む、そうなのか。とらわれの身であったきれいな女性たちは「あだ名」のようなもので呼ばれていたが、それらはわりと、普通の響きの名前だったように思う。だがFuryosaは、まんま「怒り」である。
まぁ、いいのか…?
マッドマックス、なかなかの作品なので、お時間のある方はぜひ。