わたしには、何をおいてもこれは読んで(あるいは積ん読して)おきたいと思うテーマがいくつかある。たとえばクーデンホーフ光子関連、ハプスブルク家関連、世界の食文化関連、そしていきなり話題が飛ぶが「津山三十人殺し」関連である。これは当時の現場が津山市ではなかったものの広域の名前で世間に知られていたところ、21世紀になって津山市になったというもので、1938年(昭和13年)に実際にあった事件である。
八墓村のモデルともなり、昭和から現在まで、その他のフィクションにも多大な影響を与えた大事件である。野村芳太郎監督で萩原健一が主演した映画「八墓村」は、最終的な話のまとめ方はともかくとして、ビジュアル的にとてもよくできているものだ。テレビのCMで、「たたりじゃ〜っ」という言葉とともに山崎努が頭に懐中電灯をくくりつけて走ってきたシーンを、ご記憶の方も多いかと思う。
わたしはフィクションも含めて、津山三十人殺しの本は、かなり読んでいると思う。この二日ほどで読み終えたのは比較的最近の作品で…
津山三十人殺し 七十六年目の真実 (石川清 著)
…というものなのだが、この著者は同テーマで本を書くのは数年前の作品につづいて二度目のようだ。前作は、読んでいない。どうせなら数年後に出た新しいほうを読めばじゅうぶんと考えたためだ。
さて、タイトルに書いた「捏造」である。
実は津山三十人殺しには、とても有名な、定番扱いをされている本がある。筑波昭という人の書いた「津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇」
…というものだ。これは2005年の文庫化であり、土台としているのは1981年に同著者が書いた本。わたしが読んだ文庫は、おそらくこちらのものであるため、今日はこちらを紹介する。
実はこの筑波昭氏の作品を読んだときの正直な印象で「ノンフィクションと呼ぶには無理がある」と感じていた。臨場感にあふれすぎていたり、それは誰にもわからないだろうという描写を補っていたり、あるいは津山三十人殺しに直接は関係のないものまで延々と挟んでいく手法。これをノンフィクションと呼んでいいのか、それともこれはフィクションなのか、と。
だが、この事件に関し、年数が経ちすぎていることや、捜査資料の一般公開がなされることがまずありえない現状、そして裁判でもあったのならばその記録は誰でも読めるが被疑者自殺で捜査はすぐさま打ち切りになったため一般公開されている正式な資料がほとんどない状態では、それでも貴重だったのだ。おそらく初期のころに(馴染みの警察官がいたとか、あるいは松本清張のような有名な作家であれば手に入るコネで)資料に触れた一部の人々の作品以外、資料へのアクセスが限られていた。また、もちろん現地の人は口が重く、多くを進んで語るような人がいたわけではないだろう。そのため、おそらくわたしと同様に「これはどこまで事実なのか」という目を持ちながらも、筑波昭氏の著作を重んじなければいけない風潮が、30年くらいはつづいていたのである。
ようやく近年になって、今回の著者である小林氏や、別の方も、スタンフォード大学に日本の資料が多く眠り、誰でも閲覧可能な状態で津山事件の捜査資料があることがわかったため、渡米して実物の資料に触れた、そのため、長く筑波氏作品の独壇場であった津山事件に、新たな風が吹くことになった。
結論から言ってしまうと、おそらく「自分以外に誰もこの事件をここまで書かない、書きようがない(資料がないのだから)」という思いが、筑波氏を突っ走らせたようである。捜査原本にない話、存在しない人物を登場させて作品を読みやすくするなどの虚構があった。一部はフィクションであったと、現在は高齢のご本人にインタビューされた別のライター氏の著書を通じて、その点は確認が取れているのだそうだ。
だからといってすべてを非難するつもりはないと著者が言明している以上、わたしもまた、筑波氏に何か強い思いをいだくわけではないのだが、こういう問題は、根深いのだなと、それだけは思う。
そういう、読みながらも「どこまで資料として信じていいのか」と読者に思わせるような本であっても、ぜんぜんなかったら困っていたのである。もちろん正義がすべてと考えるなら、このブログにいちいちあきらかにしないがほかにも疑問点がある筑波氏の行動は「こりゃないだろう」という見方もできるのだが、そこをあえて、「やはり(少なくとも当時は)出版しておいてくれてよかった」と思えてくる。それほどまでに、この事件は人を引きつけるということだろう。
さほど大きくない村で、多感な時期から22歳までを疎外感を覚えつつ暮らした、かつての秀才。頭はよく、手先は器用で、それでいて諸事情により村から出ていく機会を得られなかった少年時代。それがいかにして2時間程度で大量殺人をやってのけるまでに恨みを募らせたのか。本人が直後に死亡という結果になっていなかったら、何かを語ってくれることがあったら、何かを読み解く貴重な存在であったかもしれないと、そんな風にも考えてしまう。
最後に、この小林氏の著作であるが、よほど急いだのか、よい編集者さんがいなかったのか、ところどころに不自然な日本語表現や変換ミス、送り仮名が二重になっているなどのミスが見受けられた。それが残念であることがひとつと、事件への思いが強すぎて、文章がくどい部分があったようにも感じている。3行で普通に書けば終わっていることを、まったく同じ論旨で微妙に違う文章を加えながら5行で書くとでもいえばいいのだろうか。この本は、もう少し読みやすく、もう少し薄くできると、そんな風に感じた。