ほんとうはユネスコの分担金の話題が書きたくて仕方ないのだが、書こうとするたびにどんよりと気分が暗くなってしまい、数日連続で見送っている。いつか書きたいとは思っている。
さて、通訳や、翻訳について。
通訳を目指していたことがある…と書くと、ほとんどのみなさんが驚くと思うが、実力があったかどうかはともかくとして、一般的な通訳技能のほか、同時通訳など難しいものの理論や技術は、学んだつもりだ。
そのころから考えていたことだが、翻訳と翻案は違う。たとえば「通訳(または翻訳)を頼みます」と、語学のプロとして黒子(くろこ)になれと言われている作業の現場で、自分の意見や解説を加えてはならない。もちろん「訳しつつ、わかりやすい解説をくわえてご自分の言葉でお願いします」と、そっくりまかされた場合は話は別だ。
たとえば講習会や親善パーティなどの場に、その業界に詳しくてついでに言語もできるという立場で呼ばれた場合、単に通訳というよりは場のまとめや司会をしつつ意思疎通の手伝いをすることが可能であるけれども、語学のプロとして呼ばれた場合は、黒子に徹するのが普通。
具体例を書いてみよう。
外国からのゲストが、会場の人には馴染みのない外国の観光地や企業名を連発して、そこから何か大きな話に持っていこうとする。そのまま訳してもちんぷんかんぷんの人が出てくるかもしれない。
語学のプロとしてではなく、関係者のひとりとして通訳を兼ねている場合は…
○ 地名などを訳したついでに「日本で言えばこんな感じのところですね、つまりこのお話は、巣鴨と原宿に置き換えて年齢層の違う場所の話として考えてみてください」などの自由度が高くなる
ただし、語学のプロとして呼ばれている場合は…
○ 上記のように、巣鴨と原宿などの例を挙げることはできない。そのままに訳して(せいぜい地名の前後に何か言葉を挟んで理解の助けになるような工夫をする程度で)、もし聞き手がわからないようだったら聞き手の側から話者に話しかけてもらい、それを通訳すれば、わかりやすく解説しようと話者が努力してくれる。通訳はあくまでも黒子である。
ときおり、黒子に徹するべき場所で、翻案をしてしまう(ある意味、親切心なのだろうが「でしゃばってしまう」)例をお見かけする。話者も聞き手もそれに気づいている場合(あいだに立つ人物が工夫しているとわかった場合)はよいのだが、そうでないとしたら、相手がありのままにそう語っていると思ってしまうだろう。これはけっこう、事態が混乱する。
なぜこんなことを書いているのかというと、自分がどちらの立場かはっきり考えたことがない人が、どちらであるかはっきり認識している人たちの輪に混じってきたとき、かなり「浮いて」しまうことを再認識したからだ。共同作業の現場では、浮いているなどという軽い言葉では済まされない場合もある。
人それぞれにスタイルはあるし、場の雰囲気で使い分けしていくこともまた大切だが、場の約束事というのは前もって確認し、もし約束事が確立していないのであれば、自分のスタイルはこうであると確認しながら次に進んでいくことが、無駄がなくてしかもたがいに気持ちのよい集団のあり方かと、考えてみた次第である。