政治家の問題、国に関することは、とことん手加減せずに報道してもらわなければ困ると、考えている。ただ、一般人が話題の中心にいる場合であれば、ちょっと事情は違ってくるかもしれない。
たとえばつい数日前、日野市で小学生男児が山中にて首つり(自殺の線が高いと当局は見解を発表)というニュースがあった。一般的に考えて、着衣を身につけずに後ろ手に縛られ足首も結んであったとされる子供が、自分で首をつるとは、思いがたい。それがごく普通の見解だと思う。だがそこをあえて「自殺の可能性」と(事件発覚から半日〜1日で)発表するのであれば、ある程度は世間からつっこみがはいることも、警察は予測しておかねばならない。それをどの程度まで当事者らが覚悟しているか、あるいは完全無視を決めこむのか、である。
現場で言葉や凶器などにより自縛を強いられて首つりさせられたのかどうか(現地に本人以外の足跡など気配があったかどうか)、あるいはほんとうに自殺であるならば、なぜそう判断したかの見極めをどこまで発表するつもりがあるのか、もしくはまったくないのか。
発表すべき内容は多ければよいというわけでもないだろう。あまりに細かいことになると、ご家族や周囲の関係者の立場を傷つけたり、詮索が過ぎて一般的な社会生活が送れなくなる危険性が出てくる。だがまったく語らなければ、それはそれで、やはり人々は節操なく(たとえ不確かなものでも)情報を求めようとするに違いない。
周囲の人々への累が及ばぬうちに、そして地元の人々が殺人鬼が周辺にいると思いこんで騒ぐ前にと、事件要素が低いという判断を早めに発表したのであろうが、もう少し丁寧に、聞く側も納得ができる程度の情報量は、必要だったと思えてならない。