英語で配信されている外国メディアのニュースは、できるだけ追うようにしている。アメリカやイギリスなど、多くの人が関心を持っている国のメディアならばわたし以外の誰かがすぐに追うので、できるだけそれらに偏ることなく、たとえばロシアに拠点を置いたメディアRTほか、アルジャジーラ、The Localなどの北欧メディアも読むことを心がけている。
そんなわたしだが、このところようやく情報が大きく扱われるようになった大晦日のケルンでの集団犯罪(そのうち4割が女性への悪質な集団嫌がらせや性的暴行に関係したものと言われている)に最初に気づいたのは、ドイツのメディアが1月4日付けで流したニュースだった。聞くところによると年が明けて最初の数日は、現地の被害の深刻さを矮小化させるなど、警察とメディアとが協力をして「ごまかしていた」のだという。実際には大勢の被害者がパニックを起こしたり警察署に駆け込むなどしていたというのに、できるだけ報道をさせなかった(もしくはしなかった)そうだ。そしてようやく外国にもニュースが流れるようになったころ、ケルンの市長が「女性は身を守るために腕がとどくような範囲に見知らぬ男性を近づけないよう注意すべき」という、とてもではないが当日の状況を理解したとは思えない、的外れなコメントを出して、炎上したという。集団で取り囲まれて体を触られたり、衣服をむしられた女性も、そしてさらに深刻な性的被害に遭った被害者もいるというのに、お祭り気分の大晦日、公の場で「見知らぬ男性との距離を」自由に選べたというのだろうか。アホな話もたいがいにしていただきたい。
今回の報道規制は、推測もはいってしまうことをお許しいただきたいが、警察や政治による強制ばかりではなく、メディアが無意識に協力してしまったことが考えられるように思う。そう考える理由は、被害者らの「中東や北アフリカっぽい見た目の人たちに囲まれた」という訴えだ。
これをこのまま報道したら、この数年で極端に増えている難民らとの関係が取りざたされ(実際に見た目だけではこの数年の難民なのかずっと以前からいる移民かはわからないだろうが)、恐ろしい争いに発展するという危惧をメディア関係者が抱いたとしても不思議ではあるまい。
そして警察や行政の上層部からしてみれば「メルケル首相がばんばん難民を入れているから悪い」という話になったらどうしようという思いがあった可能性も——。
それぞれの立場と思惑から、勝手に事件の矮小化に向けて坂道を転げ落ちて、無駄に数日を費やした可能性があるのではないだろうか。つまり、こういっては失礼だが「より大きなことが起こるかもしれない危惧の前には、目の前で苦しんで助けを求めている被害者らは、二の次」という解釈が、成り立ってしまうのである。
パニックの助長をしてはいけないという危惧は報道に携わる個々人が秘める本能的なものかもしれないが、それを大きな意見として正当化し、矮小化させる方向に持っていってはならない。あとで巻き沿いやとばっちりを受けるのは末端の個々人だ。情報はどんなときにも円滑に流されなければならない。
近年の日本と違い、比較的ジャーナリズムが「まとも」に見えるドイツでも、21世紀の世の中にこれがまかり通る。日本も推して知るべしだ。よりいっそう、多くの人が外国のメディアなど複数の情報源からニュースを得て比較しなければならない時代である。