幼少時から本は身近だった。いまは亡き父が本をとても大切に考えていたから、出先で「一冊買っていいよ」と言われると、うれしくてうれしくて。市街地から遠く離れていた山際に暮らしていたため、中学くらいからは自分で市街地に出かけて本を見ることもできたが、小学校までは、本が増える機会は限られていた。
親が選んでいいよと言ってくれた日に買ってもらう本、それから地元の小学校だったと思うが、書庫の大々的な入れ替えで古いものを地域の希望者に配ったとき、その場にたまたまいた兄が「適当に持ってきた」と抱えてきた本たちが、わたしの宝物だった。
お化け、幽霊、ミイラ、SF、図鑑、神話、日本にかぎらず外国の本をこども向けに短くまとめ直したもの、それからストーリーとタイトルはなんとなく覚えているがどういう性格の本(こども向け文学?)なのか形容が難しいものもあった。
本を買ってもらうと、どんなに楽しくても、1日で大部分を読んでしまうと父に注意された。「一度に読むとこの先に楽しみがないよ」と。だがわたしは、ほんとうは3分の2くらい読んでしまっても「もうちょっとで半分くらいになる」と、少なめに告げてごまかしていたものだ。自分で選んで買ってもらった本だから、何回でもページをめくった。そしてそれは、実際に楽しかった。
何度も何度も読むうち、ときおり、実際にはない文章、実際にはないシーンまで頭の中で補われて、いま思うとどこまでが正確なのかわからないものも、あったものだ。もっとも、こういった経験はわたしのみではあるまい。お読みのみなさまにも「あっ、このページあたりにあの台詞なかったっけ」というご経験、おありかと思う。
少ないものをくり返し読み、大切にしていたのは、いまから思うとよいことだった。いまでは自分が過去に書いた文章をたまたま目にして「本屋で見かけるあの本とあの本、もうすでに買って読んで、文章にまとめてあったのか」やら、うっかりまた買いそうになるやら、情けないかぎりだ。これは自分が年をとって記憶力が落ちた、本の内容を忘れてしまったということばかりではなく、大部分の原因は「真剣に悩んで買っているわけではない」からなのだと思う。
幼いころの自分に父や家族がもたらしてくれた「一冊の本を大事に選ぶ、大事に読む」習慣は、自分がある程度の年齢になって「服装はどうでもいいから食と本だけは好きに買う」という路線まっしぐらになってからというもの、自分の中で重さを失ってしまったのだろう。
すぐ買い直せるからと、読んだら古本に出して後日電子書籍で買い直すというのも、たしかに省スペースで合理的かもしれない。あるいは最初から電子書籍を選ぶ人もいるかもしれない。だがわたしは、そこに「合理的な存在、データとしての文字」以上の重さを感じられずにいる。慣れの問題かもしれないし、端末の文字が小さくて気が乗らないだけかもしれないが、やはり最後には、めくった感覚を指でも覚えている「紙」というものに、とても深い味わいと意味を感じてしまう。
実店舗型の書店がどんどんと姿を消し、歴史ある新聞や雑誌が電子メディアのみに移行すると聞くと、そういう道を選ばせてしまったのは消費者の傾向であることはもちろんなのだが、紙媒体そのものは、どうにか残ってほしいと、願わずにいられない。