先日Facebookで知人らが紹介していた画像(アメリカ南部)に、「呪われてない家」と書いてある広告があった。その裏側は「呪われている家」なのではないか(つまりどちらに価値を感じる人もいる場合に備えて両面を広告にしているのでは)とお茶目な会話も見られたようだが、おおむね日本では「何もとり憑いていない家のほうが人気がある」と思って間違いない。
そもそも木造が多いし、湿気も土地によってはかなり強くて家が傷む。幽霊が出るかどうかというほど古さに磨きがかかるまでには、日本の家屋の多くが建て替え時期を迎えている。それまでの短期間(せいぜい20〜30年)で、しっかり呪われてしまうほどの出来事があったら「その家には近寄らない」と思うのが、たいていの日本人だ。
だがおそらく日本以外では、割合はわからないが「古い家だから幽霊くらい憑いている」ということをなかば期待し、楽しみにさえ思う人たちがいるのだろう。
外国のホラー映画などを見ていてしばしば思う——おいおい、それはぜったい幽霊をなめているだろう、怖さの描き方がぜんぜん足りていないだろう、と。とくに誰が家にとり憑いているかがわかっているような怖さでは日本のほうが描き方がうまいし、アメリカ(いちおうアメリカにしておく)で「とてつもなく怖い存在を描こう」と努力した場合、その描き方は人間個人の霊や思い残した念では強さが足りないので、すでにみんなが知っている「悪魔(キリスト教的な意味での)」や、土着の伝承などにある存在とくっつけてしまったほうが手っ取り早い、という発想に陥りやすいのかもしれない。
そういえば、これを書きながら思ったが、アメリカの映画で「ただ人の気配がして不気味」とか「誰かが黙って見ている」というタイプの幽霊には、ほとんどお目にかかったことがないかもしれない。相手が「生きているかのように」強く主張してくる、何か(誰か)を強く憎んでいるといった、激しい感情を持った存在に描かれることが多いようだ。そうなると「原因がある、それをつきとめ、終わりにさせようとする」道筋になるのが、やはり日本的に考える「怖さ」とは、どうしても違うものを醸し出すことになるのだろう。
日本的に描く幽霊物や「怖い作品」では、相手を見極めてそれを乗り越えようとする感情の前に、理不尽さ(なんで自分がいきなりこんなひどい目に)に呆然するとか、悲しむ、もしくは無気力となるといった状態を描くことが多い。そのため、見る側が感情移入をすることで、より恐怖が身近になりやすいのではないだろうか。
さて、わたしは「この家は、(何か)出ます」と言われたら、借りたり買ったりするのに躊躇するとは思うが、未解決の刑事事件の現場ですと言われるよりは、まだよいかもしれないと思う。未解決の事件の場合は加害者が生きている可能性があるため、実質的に身の危険がありそうだからだ。それはさすがに怖すぎる。
一番困るのは、そんな表現が広告に出るとは思えないが「お祓い済みです」。これはどう解釈したらいいのだろうか。祓ったからもう出ないというのは、何を根拠にと思う。それなら「以前は出てましたが、最近は出ません」の表現のほうが、まだましかと思う。
以上、古い映画をリメイクした作品(2011年「ダーク・フェアリー」、オリジナルは1973年「地下室の魔物」)の冒頭をちらりと見て、つらつらと考えてみた。ちなみにオリジナルのほうは後味が悪く、おそらく同じ展開だろうと思ったのでリメイクのほうは、冒頭だけ見てやめておいた。