たとえば誰かが「こんなすごくいい話があった」とネットで書けば、どこからともなく、似た話で悪い例がまわってきて目にはいる。そこでまたよい話と悪い話の応酬がはじまる。また、「こんなひどい話が」と書いた人がいてそれが大げさすぎたり正しくない情報であれば、誰かしらがせっせと正しい情報を載せようとする場合もある。そういう反動というか、バランスのようなものが、ネットにはある。
たとえば昨日わたしが「おばあさんに親切にした人の店に、そのおばあさんの娘さんが客としてきて、お礼のメッセージと一緒にチップを500ドルおいていった」という話にほのぼのとしていると、半日後に、レストランで見た目が白人でない女性が接客を担当した相手が、食事のあと伝票に「市民にしかチップは払わない」と書いていたことに当事者の家族が腹を立ててネットにその伝票をさらした話が到着。うぅむ、なごんだあとに、これはすさむ。しかも見た目が白人でないだけで、女性はアメリカの市民権を持っている普通の人だったという。
有名芸能グループが解散することなったと誰かが騒ぐと、そんな騒ぎに惑わされているあいだに妙な法案がたくさん通るから気をつけなければいけないという話がまわってくる。それはたしかにある。毎度のことである。しかも日本のマスメディアがなぜか率先して政府に協力してしまう傾向が顕著になってきた。こうした「気をつけよう」という言葉が出てくることの背景には、流されたくない、不用意に流されるのではなく周囲の風景もきっちりおさえたいと、そういう意識が高まってきているのではないだろうか。
自分のことでも、書く内容にバランスを考えている。ブログに暗い話や同じ傾向の話をつづけて書かないように気をつけているが、たまにどうしても、暗い話ばかりを書きそうになる(あるいは実際に書いてしまう)ことがある。自分が自分のつけてしまった方向性とその流れに引きずられてしまいそうになることは避けたいと思うため、できるだけ、似た話を連続して書かないように、心がけたいと思っている。
この先、本をもっとたくさん読みたいと思っている。もっと多くの文字を刻みたいと思っている。いつも、冗談まじりではあるが「いつ”これが最後”になるかわからないのが世の中だから、毎日ちゃんと言葉にしておきたい」と、家族へ礼のような言葉も欠かさずにいる。言葉は大事だ。大切だ。
明日も、美味しく食事ができて、問題なく1日を過ごせれば、それだけでありがたい。そんな日々を積み重ねていきたい。