英語は実質的に国際語で、アメリカ語ではないはず

 ホワイトハウスでの記者会見で、日本人記者を含む外国人記者の英語発音をからかうかのような言動が、トランプ大統領から発せられたとの記事を読んだ。実際に日本人記者の部分については動画も確認した。
 2018.11.08 The Japan Times In case you missed it: Trump’s awkward response to a Japanese reporter
 また、たまたま検索上位にあった、こちらの記事(日本語)も、リンクで紹介させていただく → 2018.11.08 トランプ、日本人記者に「英語がわからん」動画と国内外の反応

 一般人の会話ではなく一国の代表が、大々的に中継がはいっている場でアクセント云々の軽口を発することに、なにやらむなしさを感じる。

 わたしが英語を学びはじめて夢中になった70年代後半から80年代にかけて、若い世代の英語学習とは、アメリカやイギリスなどどこかの国のネイティブ風にしゃべれるよう、ひたすら「真似」(いまふうに言うならば「目指せ完コピ」か)に徹している事例が、多かったと思う。どこか風にコピれば小馬鹿にはされない、少なくとも違和感をもたれることはないと考えた。もちろん電話や文章で英語のやりとりをするのでないならば。見た目でアジア人と判断されてしまうわけだが、そうであっても発音や文法が正式であれば、自信につながるとわたしは考えた。
 だが当時から「発音がどうであれ中身である、伝えたい内容や専門とする技術または学問があるのでなければ、いくら日常の雑談がネイティブのような発音でも意味はない」と、警鐘を鳴らす人たちはいた。そしてわたしも東京暮らしが数年以上になったころから、中身のある人間を目指すことこそ重要だと、考えをあらためた。

 学生時代に経験した国際見本市のアルバイトではインドのビジネスマンたちの英語で衝撃を受け、その後もネイティブではない第1または第2外国語としての英語でビジネスをする各国の人々を見て「通じればいいんだ、通じなければ意味がないんだ」と、そう思いを新たにして、現在にいたる。

 東京暮らしも英語歴も長くなったいま、あらためて、考えさせられる。
 国際的に中継もはいっている場所で軽口をたたかれた(日本人記者を含め)外国人記者らを気の毒に思うと同時に、そのことを大騒ぎしない日本の世論も気になる。やはりアメリカでは、正式な場にはアメリカ風の英語が要求されるものなのか、そしてそれを日本人の何割かは是としているのか。これは言うなれば、英語が実質的な国際語の立場であることを軽んじて、アメリカの言葉と考えるかのような不遜さが相手にあるところを、たしかにそうだと認めてしまうことに、なりはしまいか。

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