理想郷(ユートピア)の逆で、しばしばSF作品や社会派ホラーのようなものを通じて描かれてきた「ディストピア」だが、この10年ほどだろうか、わたしは実生活において、それをいやというほど感じとるようになってきた。
現首相が二度目の総理大臣になったとき、頭の中に浮かんだイメージは唐沢寿明主演の映画「20世紀少年」だった。人は言いたいことも言えなくなり、虚構のような情報で操られ、何か行動を起こそうとすると信者のような集団に妨害される——そんな世界の予兆は、すでに自民党の野党時代にあった。東日本大震災の復興の話し合いが山積みというのに審議拒否を連発したことで、自民が与党にもどったらとんでもないだろうと、思ったものだ。
現首相は自分たちが野党にいた時代を「悪夢」だと、最近になってさえ何度も表現してはばからないが、予感したことがつぎつぎに起こるのを目撃しながら過ごしたこの年数で、わたしにとって現政権はずっと「20世紀少年」の世界にあった。政治を考えるとあのテーマ曲まで頭に浮かぶほどだ。
政権に都合の悪いことは、はぐらかす。弁の立つ相手は気に食わず、何か言われればレッテルを貼るのはやめろと言う。やることが子供である。「無理が通れば道理引っこむ」が常態化し、一般人にもそのわがままな考えが伝染してきた。
それを今日、ますます思い知るこことになった。
愛知県で開催されている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が、中止に追いこまれた。75日間の予定だったところを、3日で継続不能の判断となった。電話やメールなどで、暴力行為や、放火を連想させるものがあったという。
2015年以降で、表現しようとしても場が与えられずにそれがかなわなかったものがあり、そのうちの一部内容を展示してみんなで考えようという企画意図だったはずだ。それが暴力的な言動により、不可能になった。
自分が不快に思うものでもそれを見て考えるきっかけになる人がいるかもしれない——たったそれだけの余裕を、持たない人たちがいる。まして公人の河村市長が言ったとされる、「公的な資金の出ている場所でそんな展示はいかがか」とは、危険な発想である。つまり、公的な金が出る場においては企画の細部にいたるまで誰かにお伺いをたてたり大人数での同意をとりつけておかねば、という発想なのだ。これはあきらかに検閲である。
人の感覚が、麻痺してきている。公的人物までも検閲を是とするような発言をするとは、そしてそれを疑問に思わない人がいるとは、かなり深刻な状況だ。