愛知トリエンナーレの「続・表現の不自由展」が中止に追いこまれたときに、公費を使うことが問題で、私費ならそこまで騒がれなかったのではという意見をネットで目にした。
だが、わたしは芸術こそ公費でと思う。なぜか。
それは思いきったことものを展示するのに、金持ちの賛同者がいなければ実現できないような状態は、健全ではないと考えるためだ。つまり、自費でできないならば賛同者が必要になるが、賛同者する側にもビジネスや政治の面で多方面としがらみがあれば、そう簡単にはいかないものという現実がある。
意図が通じにくいものや物議を醸しそうなものには、どうにも金を出せないとする判断も、賛同しようとした側には起こりうるはずだし、実際にそれが発生してきたからこそ、今回の話題になった「表現の不自由展」というものが企画されたのだろう。いったんはじかれてしまったものを、再度展示するこころみであったわけだ。
固定概念や多くの人が共有する感覚とは異なる視点や意図から造られたものを、誰しもが普通に展示することができるとしたら、公費の支援または補助があってこそと思う。
多くが理解を示しそうなものだけに公費を使っていたら、人の考えは「多くの人はどう思うか」に、縛られていくようになる。それはあまりにも自由のない世界だと、わたしは考える。