高校の卒業後に東京に出てきた。進路を熟慮したかといえばそうでもなく、学部もばらばらで一貫性に欠ける選択の末に受験した大学はどれも不合格。それでもわたしは東京に住みたかったため、最初は外国語の専門学校にはいって学び、そののちに大学を受験しなおした(←けっきょく大学は卒業せず)。
最初の学校で2年目の通訳コースに進んだとき、やたらと気を遣ってくれる友達と出会った。
どう気を遣うかというと、たとえば「さっき言っていたお店は、いま通り過ぎたそこでは?」と言ってしまうと、わたしが店を見落として歩きつづけていることを自分が指摘してしまうことになり、わたしが気を悪くすると考えるらしい。その代わりに出てくる言葉が「わたしはおなかが空いていて、これ以上を歩くのは無理なので、このあたりの店にはいるのはどう?」である。言われて立ち止まると、そのすぐ近くにわたしが寄ろうとしていたのにうっかり通過した店がある、という具合だ。
その友達と身近に接していたのは卒業手前までの1年弱だったが(——のちにわたしは大学を受験するため、それまでずっと出席率だけは優等生レベルだった立場を捨てて、卒業が危ぶまれるほどアパートにこもってしまった)いろいろな会話を通じて、ほんとうに気を遣う人だなあと、実感した。いっぽうわたしはおおざっぱな性格で、いろいろ迷惑をかけていたのだろうと思う。
年代や、育った環境が違うと、ときにそうしたひとつ間違うと「まわりくどい」言葉は、理解されないことがある。だがわたしにはその友達の意図はよくわかったし、自然とよどみなく出てくる言葉には、深い思いやりを感じた。
その後その人は何回かの転職の末に外国のエアラインで乗客に接する仕事に就いたが、おそらく持ち前の明るさと、自然に行動に移せる思いやりとで、すばらしい仕事をされたはずと信じている。