誰にも話したことがない話

 有名作家でもないし芸能人でもないので、こんなことをここに書いても、誰も「へー」などとは思ってくれないのだが、このまま書かずにいるのもどうかと思い、書いてみる。

 中学生のとき、子供向けの雑誌で見たのだと思うが(当時は小学○年生、中1時代やら、学年ごとのタイトルがついた学習雑誌のようなものがあった)、わたしより少し年上くらいの女生徒が交通事故で亡くなり、その子がつけていた日記を親が出版することになったというものだった。

 たしかその日記のタイトルは、ひらがな4文字くらいの単語(たとえば「しあわせ」とか)に「日記」がついたものだった。

 それを読んで、わたしは何を思ったか、日記を書いてみようと思った。タイトルも同じようなものにして、ひらがな4文字に「日記」をつけて、シンプルなノートの表紙にそう書いた。いわば、これから土佐日記を書いたるぞの意気込みを表紙で宣言する紀貫之のごとしである。

 さて、何か書いたるぞ、と、何かを書いた。
 ノートの3分の1くらいまで書いたのを覚えている。

 だがむなしかった。わたしのしていることは単なる真似で、結果として「なにかの拍子に死んだりしたら世に残すものがある」というだけの、目的とも呼べない考えに端を発している。そんなものを書いていておもしろいはずがないし、健全でもない。

 だんだんとそのノートが、馬鹿らしいを通り越して自分という人間の醜悪さが詰まったもののように思えてきた。そして、わたしはそれを捨てることにした。

 当時わたしの住んでいた家は、裕福ではなかったが文房具や書籍などはわりと手に入れやすく、文房具だと言えば親が金をくれた。だからありがたみをあまり感じていなかったのかもしれないが、そのノートが見苦しいものだと思っていたわたしは、余ったページに落書きするでもなく、ぜんぶをぽいっと捨ててしまったのだ。

 そのことを、しばらくは忘れていた。おそらくは、半月くらいだろう。

 あるときわたしは、父が本棚のような目的に使っているカラーボックスを見ていた。何かを探していたのだと思う。父は片付けが得意で、便利なものなどは言えばすぐ出してくれたが、そのときはいなかったのだ。

 ふと、わたしの手が止まった。

 わたしのノートが、そのカラーボックスの隅にあった。

 …はぁ?
 ……はぁ?
 いったいなんだこれは…。

 倹約家で、勿体ながりの両親であった。おそらく最初は「なぜノートが」と手にとったのだろう。当時は市街地からゴミの収集はなく、生ゴミは庭に埋めて、普通ゴミは裏庭で焼くような地域だった。父か母かは不明だが、使い切ったものではなく「こんなすごそうなタイトルで、思い出になるはずのものが、なぜ捨ててあるんだろう」と、保管することにしたのではないだろうか。

 マジで腹が立ち、誰にも見られないように家の隅に持っていって、復元不可能という表現以上の「元はノートだったのかどうかすら怪しいほど」びりびりに裂いて捨てた。

 あちらとて、「日記を捨てていいの」とも聞かずに、勝手に保管したのである。あんなくだらない日々の文字を読んだのかもしれないが、くだらなかったに違いない。だがそれをおくびにも出さず、将来わたしに「とっておいたよ」などと言おうものなら何を言われるかわからないから、一生そのまま隠し通すつもりだったに違いない。
 だからこちらも、誰にも言わずに、びりびりにしてやった。

 親にしてみれば、わたしがあんなものを書きはじめたことも、まもなくやめて捨てたことも、どうしてなのかわからなかったに違いない。聞いてくるような人たちではなかった、とくに父は、たいしたことは何も言わない人だった。

 この話は、家族がほぼいなくなったときにどこかに書こうと思っていたが、もはやわたし自身も高齢者に近づいているので、いまのうちに書いてみた。

投稿者: mikimaru

2021年現在「バウムの書」、「お菓子屋さん応援サイトmikimarche」などのサイト運営に、力を入れています。 かつててのひら怪談というシリーズに参加していたアマチュア物書き、いちおう製菓衛生師の資格を持っています。 バウムクーヘン関連や、昔からの知人には、「ちぇり」もしくは 「ちぇり/mikimaru」を名乗っています。