これは何年か前に経験したのだが、いくつかの用語を調べたいと思ったとき、ネットは使い物にならなかった。だが紙のメディアで古いものをじっくり見てまわるには、図書館などで何時間も(そして複数回)かけて調べ物が必要になるため、あきらめてしまった。
たとえば、不適切や差別的と考えられる言葉。時代や場所によっては不適切とされるものの、そうでない場面や時代も存在していると考えられる場合だ。それらが現在でも悪意のニュアンスなく普通に使われている場所はあるのか、あるいは時代なのかといった問題を調べようとしても、検索エンジンが言葉を無難なものに置き換えてしまう。
そうした経験にからめて記憶している用語では、「部落」があった。これは別に同和問題や差別と関係なく使われている場所も存在するが、わたしが10年くらい前にある日本語変換システムで「部落」や「白痴」を入力したかったとき、変換してくれなかったことがあったのだ。変換をさせてくれないので自分で文字を指定して覚えさせねばならず、なんたることかと憤慨した。(その後に怒りが静まったので、おそらくその会社は変換できるようにしたのではないかと思う。現在はそのバージョンが販売されていないので不明である)
これに関しては、会話の用例ではなく人に読ませるための文字が掲載されやすいネットの特質として、地域で使う「部落」の用例はあまり上には出てこない。ほとんどが部落差別などの部落が上に出てくる。
また、「外人」または「ガイジン」の事例もあった。
これはわたしが幼いころの日常生活に限定するが、外国人をたまにしか見ない海なし県の育ちとしては、西洋系(白人系)の人々を意味する表現としての使われ方が多めだったと記憶している。それらの外国人を揶揄する表現としても使われていたことも、覚えている。
西洋系以外の人たちには、人は適当に類推する国名を当てはめていたと思う。たとえばターバンを巻いた人のイメージはインド人、日本人に見た目が似ているが日本語を話さない人は中国人または朝鮮人(←朝鮮人に関しては幼少時にはそれが朝鮮人を指す差別語だと知らなかった表現が幅広く流通していて、現在では死語である)、そして色が黒い人は黒人である。
だが80年代〜90年代のころ、日本に住んでいる外国人らが「ガイジン」という表現に大きな不快感を持っていることを知った。わたしは外国語や観光業について学ぶ立場でもあったので、外国人と接する立場の人たちからそう聞いた以上は、外国人という表現を徹底しようと考えていた。わたしの頭の中からは、その段階で「ガイジン」がすっかり消えてなくなった。
世の中全員がわたしのように観光業の現場からそう聞いたわけではないので、その後も地域や年代によっては、使う側に悪気がないままの「ガイジン」が残っていたように思う。ただ、東京に住んで、会話する知り合いも少ないと(メールなど文字のやりとりが多いと)会話に出やすいそうした言葉は、ほとんど聞こえてこなかった。
つい数年前だが、わたしが知っていたガイジンのニュアンスが変わってきているかもしれない事例を知った。
言葉をポジティブなものに変えていこうという考えなのかもしれないが、在日の外国人らが(西洋系以外も含めて)自分たちをガイジンという言葉で表現し、そしてその内容がわりと明るいこともあった。もしかするとガイジンを外国人の省略形としてのみ認識している新しい世代もいるのかもしれない(昔は嫌な使われ方があったというのを知らない世代が出てきた可能性があるのかも)と検索しようとしたところ、検索ではすべて、ガイジンは外国人と書いた事例に飛ばされてしまった。
大手検索エンジンの中の人たちが、これは不適切というマークを付けてしまえば、それ以降はもう、実際にその単語を違う意味で使っている人がいようといまいと、検索されなくなってしまう可能性が高いのだ。けっこう怖い話だ。
怖いといえばこれもだが、あまりにも「不適切な単語」を検索しつづけていると、将来に個々人の検索履歴から反社会的な言動を見ようとする動きが発生した場合、わたしが「好ましからざる人物」に認定されてしまう可能性もある。でないものはあきらめて追いかけない方が無難かもと、気持ちが後ろ向きになる。
いっぽう図書館などにある紙の資料または紙から起こした保存データは、改竄が難しい。紙資料が勝ると思うのはそんなときだ。
時代による価値観や倫理観の変化があっても、おそらく「使用されている表現は古いので配慮を賜りたい」といった注意書きが出る程度で、閲覧はできることだろう。現在では驚くような表現や概念がたくさん見られるかと思う。
時間が許せば、図書館で昔の普通の新聞を、ただ読むだけでもかなり発見があるように思っている。