朝の早い時間から、定期通院で病院へ。数分の診察の後で処方箋を書いてもらうために運が悪いと3時間くらいかかる。今日は出だしからつまづいて、高円寺駅で電車が遅れていた。少し遅れて病院に到着すると、諸事情で検査に時間がかかった。
最近その病院は忙しいらしく、病気の部位によってはメインの用件とサブの用件で、医師ふたりが診てくれる。サブの用件のほうはすぐに終わるのだが。メインのほうが運が悪いと3時間以上待つ。予約をしていてその遅延。ほぼまったく遅延なしというのは年に1回あるかないかだ。
しかも今日はそのあとで今後の検査について打ち合わせがあり、わたしが検査方法で希望を出したところ、まさかと思うほど熱心に各関係者が話し合いを開始、いやそこまでやってくれるとは思わなかったぞと感謝しつつ病院をあとにしたのは受付から4時間以上が経過したときだった。さすがにバテた。そしてその時間帯においても朝からまだ水分程度しか摂取していなかった。
とてつもなく空腹で、いつもなら帰宅前にどこかの店で軽食を買って帰宅と同時に食べるのだが、今回は荷物と疲れで店に寄ることも出来ず帰宅。家にあったものを食べた。
その後、何があるかわからないのでねんのために近所の薬局へ処方箋を持って出かけた。最近は休日を含んでも4日以内に処方箋を持ち込まないと無効化されるのだ。また診察を受けて処方箋を書いてもらわなければならなくなる。体を引きずって薬局へ。
その後、家で何度もうたた寝をし、パソコンの画面の前で体を揺らしていたのだが、夜も更けるころには寝られなくなる。あれこれいろいろ考えてしまうのだ。自分の老後のこと、親のこと、病院の待合室で家族の将来について大声で雑談していた高齢親子のこと。自分はいったい何をしているのだろう、自分はたいしたこともしないでここまで来たが、この年になると、このままきれいに人生をたためる方向を考えていてまったく夢がない——つい自分について厳しく考えてしまう。
そんなときお決まりの「鬱診断」などのサイトに出かけるが、設問の日本語の曖昧さに辟易。「自殺や死について考えますか」とは、いったいなんだろう。自殺は考えないが死という概念については山ほど考えている人間はどうしたらいいのか。こういう設問にとても腹が立つ。年齢を重ねるにつれてこの度合いが大きくなっていく。
自分がこれまで何かに熱心であったこと、将来についても自分が何かを好きでいつづける暮らしをしていることという前提が、年を重ねるに連れて「何事にも関心が薄れる」とか「あんなに好きだったことでも普通くらいにしか興味がない」という状況を目の当たりにしながらぼろぼろ崩れていって、将来自分はどれくらい怠惰な人間になっているのかと、そんなことばかり考えてしまうのだ。
まだこの苛立ちや怒りのようなものは外部に向いていない。夜中にひとりでパソコンの前にいると止まらなくなるが、ものに当たったり人に言い散らかしたりはしていない(そんな相手はそもそもいないが)。だがこの先、この感情が育ってしまったらどうなろうのだろうかと思うことはある。
というわけで、今日も眠れない。眠らない。