愛想を尽かす、愛想が尽きる、ではなくて「愛想づかし」の話。
ほんとうは別離や終焉を願っていないのだが、事情があってそうしたほうがお互いのため…などというときに「愛想づかしをする」と使う。最近はこの事例をあまり聞かなくなったが、以前は普通にテレビドラマでも使われていた。(以前というのは、もちろん昭和である)
なぜこんな言葉について書いているかというと、あるネット上の場所において、運営者の事情と利用者の希望が方向性として一致していないにもかかわらず歩み寄りが見られない事例を長く見てきたためだ。去っていく人たちについては「愛想を尽かした」「愛想が尽きた」で表現できるが、しぶとく残っているアクティブ層にもこの先あまり配慮や意見交換の場が提供されないようであれば、これはもうサービス提供者側が(先々を考えて利用者をふるいにかけるため)「愛想づかしをしている」のかな、とも感じる。
ひとまず、様子を見ている。別に生き死にに関係するほどすさまじい話ではないが、取り扱う素材がよくても運営方針がぶれたりすると、ここまで状況はガタガタになるのかなと、残念に思っている。