最後に会社員をしていたころ、手荷物にいつもてのひらサイズの字引(字典)を入れていた。あのころは電話とFAXが主流で、漢字が書けないとたいへんだった。仮にワープロ(ソフトではなくワープロという機種を含む)が使える状況でも、変換される文字を選ぶのは正しい知識がなければいけないので、漢字の確認は必要だった。
その後、DS-Liteのようなポータブルな機種で使える各種のユーティリティソフトが出た。だがわたしはDS-Liteのようなものはゲームをやる以外にほとんど使わなかった。もう個人が家庭でパソコンを持つ時代になっていたし、もしそういうお役立ちソフトを入れるならパソコンに入れるほうが便利だと思った。
その後、検索全盛の時代が何年もあり…この数年は、AIになった。検索エンジンを使っていても各社のAIが先に答える。その裏を取るために画面をスクロールしてどこかのサイトをクリックし、AIが間違えていないことを確認するのだ。
この漢字とこの漢字はどちらが適切かといったものから、「○○みたいな意味を含む北欧っぽい名前」と検索窓で打つだけで、AIまたは検索エンジンが説明してくれる。なんとありがたいことなのか。時間短縮ができるだけでなく、なんとなく調べた気にさせてくれる。
もちろん、これまで何十年、何百年も、世の中で数知れないほど多くの方々が本を書き、編集し、活字にしてくれたおかげでAIはいいところ取りができているのである。それまでの多くの人たちの努力や知識を、時間短縮ができる形で現代人に提供してくれるのであるから、AIの出す成果物に感謝しつつも、それ以前の人たちは報われるのだろうかという思いも、多少はある。
これを書きはじめたらキリがないかもしれない。何か便利なものができたときそれ以前の方法を生業にしていた人たちは職を失うのが世の常だ。たとえば無声映画の時代に活動弁士という方々がいたそうだが、映画から音声が出るようになって廃業したはずだ。レンタルビデオ店はもはや激減している。多くの人が配信サービスを利用しているからだ。また、通訳や翻訳といった語学関連も機械翻訳やAIが発展するにつれて、仕事は減ってきている。
だが、レンタルビデオ店のように「人が映像作品を見る」ということそのものは変化していない(店で借りるかどうかの問題)が、手間暇かけて調べた、または勉強していたものが、あれよというまにその場で楽にわかるようになることは、もしかしたら同列にならないのかもしれない。AI時代のあとでは、人はもう「かつて誰かが手間暇かけて作ってくれたデータを読んで紹介するAIなるもの」が、あって当たり前だと思ってしまう。この「楽な玉手箱」が何かのはずみに失われたとき、人間はとてつもなく無力で無防備になるのではないかと、そんな気がしている。
だがひとまずわたしは、そこまで思いながらも、つい便利なのでAIを使いつづけている。