つい最近、古い言葉の「訪う」が変換されなかった。その理由はわたしがそえを「おとのう」だと思いこんでいたからだ(正しくは「おとなう」)。
漢字にしてしまえば同じだが、変換させるときには読みが正しくなければ変換されない。無理に「訪問」などと打ってうしろを削れば出ることは出るのだが、それでは自分が読み間違えていることに一生気づかない。そして、古い文学作品の朗読を頼まれることはないだろうから、誰かに指摘されることもほとんどない。つまりは「変換で出ない」ことがどれほどありがたいきっかけか、ということである。
(つい先日も、これくらいのレベルの勘違いがあったのだが、はて、どこにメモしたものやら)
英語も同じで、疑問はそのたびに調べようと思わないと、ドツボにはまる。普段からなんとなく通じてしまうのでいいかと思って適当な事例を積み重ねてしまい、知らずに大恥をかいているかもしれない。
先日、擦り傷や、ごく一般的な「傷」について英語を書こうとした。わたしが普段から愛用している文法チェックのAI (Grammarly)は、よほど文章の雰囲気としてニュアンスがおかしくないかぎりは、短い文章ならばとくに、通過させてしまう。だがよく考えると、やわらかいものにちょっとついた傷(人間のほっぺなどの柔肌や、デリケートな果物の表面)と、たわしでつけてしまったフライパンの傷は違うはずだ。
英語で文藻を書く、あるいは何かの英訳の必要が生じるとき、まず自分で書く → 書きながら Grammarly で標準的なチェック → 部分的に「ここもうちょっといい表現ないか」という場所を指定し、 Grammarly のAIで言い換え候補を出してもらう → さらに推敲 → 全体から気になる場所を拾い出して、チャットAIに「これって自然な英語だと思う?」と尋ねる → さらにそれらのパーツを再検討して仕上げる ——という手順を踏むことが多い。
これくらいやっても、だいたい何か気に入らない点が見つかる。だからほどほどでやめる。