午前2時過ぎに、かねてより問題となっていた安全保障関連法が可決されたこと。人によっては「タリーズに行かない」と言っていること(これはわたしも実は考えたが結論が出ていない)。今日は終わりのはじまりだというポジティブな考えの人がいること。かといって当事者でもなく、どちらかといえば株や資産運用が上手そうで安泰な立場かと思える人が”悲壮感ありまくりの人がいますがポジティブにいくのもいいんじゃない”と書いていると、その人に悪意はないのだろうけれど勝手にむかっ腹がたちそうになって、どうにかこらえること。
常総市に連休でボランティアが集まっていること。
塩爺が亡くなったこと。
せっかく補修が終わってきれいになった姫路城にドローンで傷をつけたアホがいること。
この連休は吉祥寺のほかに日本橋も行けるだろうかと考えている自分がいること。
それぞれの日常。
日々の時間のあいまにパンを焼いたり、コーヒーを楽しんだり、そして余分に小麦粉やバターを買っておける程度には余裕があること。明日の食べ物や、今月の家賃や、スマホの買い換えプランについて考えることができる暮らしが、ひとまずは目の前にあること。
明日にでも隣国に逃げよう、船にしようか、どうしようかと、考えなくてすむこと。
そしてやっとたどり着いた先で、ここには住めないと門前払いをされるような日々は、とりあえず、なさそうなこと。
明日も同じような日が送れるであろうと、おそらくまだ考えていられる人が、多いという事実。
これは、素晴らしいことであり、価値あることなのだが、これを当たり前と思わずにいる謙虚さことが、いまの日本で多くの人に求められていることではないかと、わたしは思う。