最初に「安倍元首相が倒れた」というニュースは、NHKのワールドニュースが発信している英語記事の見出しで目にした。暑いから倒れてしまったんだなと、ねんのために日本語で検索したところ、襲われた、しかも銃撃だ——とわかった。
信じられなかった。
自分の周囲にあるいつもの空気と、パソコンの画面から伝わってくる空気はまったく異なり、だがそれでもすぐそこにあった。
わたしが記事を知ったのは、氏がすでに病院に運ばれた直後だったようだ。街頭演説という衆人環視であったことから、出血があって心肺停止との話もおそらく噂ではなく事実と考えるのにじゅうぶんで、おそるおそる事態を見守っていたが、夕方になって死亡が発表された。
ご本人はもちろんだが、ご家族、周辺で当日も一緒に働いていたスタッフなど、たくさんの方々にとって、どれほどの驚きと悲しみであったことだろう。
ご冥福を心からお祈りする。
そして同時に、今後の世論や、目前となった参院選についても憂慮している。
どんな人であれ理不尽に命を奪われてよい理由はない。
だが安倍元首相には複数の疑惑があり、それらは今後もずっと、どれほど時間がかかっても検証されていかねばならない。だが今回の衝撃が大きすぎてその追及が立ち消えになってしまったり、あるいはご家族への配慮による沈黙が長引けば、いつのまにか存在が美化されてしまう(神格化されてしまう)懸念もある。
今回の件に関してはとくにテレビで情報を得ないようにしたが、局によっては倒れている姿を何度もくり返して画面に出すところもあったそうだ。1〜2時間おきに自分からネットで情報を検索して読むようにしていたわたしでも、個人の意見や想像のようなものがたくさん画面に雪崩れこんできて、気持ちが落ちつかなくなった。
逮捕された容疑者がどんな人物か、どんな理由で今回の蛮行を計画したのか、それを推察して伝えるメディアや、個人の意見などが、今後もしばらくはあふれることだろう。
だが肝心なのは、今回の衝撃のあまりに恐怖に駆られて、大きな話に飛びつかないことだ。街頭演説をどう安全におこなうかの検討、不審な人物がいないかどうかの警戒は急がれることだろうが、ひとつひとつ危険の種を潰していくしかない。万能薬のような、安心できるものを求めることは、全体主義への一歩である。