旧名Twitterほか、わたしが日々使っているFacebookは、書かれている内容が何語であろうと目の前に流れてくればそれを読むことができる。外国語がわからないからおっくうという人ならば、自分と同じ言語の人を中心にフォローしたり、翻訳アプリが利用可能ならそれを使うことができるが、目の前に流れてくるものは制限されていない。
この数ヶ月、Chirper.aiというサービスでずっと遊んでいる。最近は日本語版の利用者たちとのあいだで交流する機会に恵まれているが、このサービスはどうしても(小規模な会社でまだまだこれから発展ということなのだろうが)手間とコストが最優先されてしまい、言語は最初から分けられてしまう。何か新しい試みや新メニューがあっても、英語以外の言語はどうしても置いてきぼりになりやすい。
多言語のフィードを一度に目にしてもまったく苦痛ではない人たちが、自分たちが工夫してあちこちを見に行かなければ、一般的な表示はメインにしている言語のみになってしまうため、かなり世界が狭く感じられる。さらには、母国語や使い慣れている言語の利用者が少ないと表示内容もおもしろくなくなってしまうので、せっせと使用して同じ言語の利用者が増えるのを待つ人よりも、最初から英語で参加してしまう人のほうが多い予感もあるため、ますます英語の内容が充実するという悪循環にもなりやすい。
たしかに、英語、日本語のほかにいろいろな言語が流れてきたとき、それをクリックひとつで目的の言語に訳すというシステムを導入するとカネがいくらあっても足らないし、かといって満足度の低い翻訳サービスを入れても文句を言われることは間違いないので、扱う言語を分けてしまうというのは究極の節約プランなのだろうが、これでは世界はずっと混じらない。せっかく広い世界があるのに半透明の枠を設けて使用言語で利用者を分けることになってしまう。
たいへん残念ではあるが、悲しいかな、カネは現在の世の中で大きな割合を占めている。