実話怪談系の短編集を読んでいると、よくあるのが「不可解なことが連続して怖くなったので、原因だと思う○○を寺に預かってもらった」とか「寺や神社で片っ端から断られるほど強力な因縁のある品なので、どうしたらいいのかわからない」などの表現である。
書いている人、それを著者に語った人の何割が実際に寺や神社に持ち込んだのかはわからないが(言葉の結びとして便利だから「寺に預かってもらった」という書き方をしているだけの可能性もある)、物品が無尽蔵に収納できるほどド田舎の広大な施設でもないかぎり、預かって拝むなどしたあとは一般的な廃棄物または手続きを踏んだ上での産廃として処理されるのではないかと思う。何でも自分で燃やせる時代はとうの昔に終わってしまったので、一般的に可燃とされるもの(お札、写真、手紙、木製製品など)でないかぎりは、預かった方も処分に困るだろう。身も蓋もないが廃棄には金がかかるので、ものによってはお気持ち程度の金額ではなく、はっきり○○円以上と指定してしまったほうがいいものもあるはずだ。
すると今度は、廃棄する手数料がいくらで拝み賃がいくらでという、料金表のようなものが公になっていくきっかけとなってしまう。それもまた不粋ではある。
人間の社会に生きていて、怖いのは呪いではなくて、呪いの話をしている人たちである。誰かが信じないとか気にしないと公言すればするほど、包囲網のように話がでかくなっていく。あげくには園人物が無関係のことで怪我をしても「信じないと言ったからだ」と、話題にされてしまうかもしれない。だから本意ではなくとも適当に話題を流して、強い反対意見を言わずにその場をやり過ごすのが精神衛生上はよいのだろう(——だがそうすると迷信めいたものがずっと残りつづけるということになり、消極的な加担となってしまうのかもしれないが)。
寺や神社は、それが呪いもしくは曰く付きの品であることを信じていなくても、とりあえずその主張を受けいれて対価をもらい、相手の心を静かなものにしたいと考えるのだろう。持参した側は安心し、持ってこられた側は「拝みます」と答えて、すべてが丸くおさまる。呪いが解けたころ返してほしいという要望ならば断らなければならないだろうが、これは平和的な解決である。