伊藤詩織氏の監督映画について、かつて弁護を担当していた弁護士から、強めの意見が表明されている件。内容は「ホテルの防犯カメラ内容は裁判にのみ使うという書面に伊藤氏と自分が連名でサインした」のに伊藤氏が映画に使用してしまったことと(大意)、ご自身を含む他者の音声や映像で承諾を取っていないものがあるとの指摘だ。
その後、Twitterで問題の部分と思われる映画の切り取り映像が出まわってしまった。内容の衝撃もあってか、多くの人は被害者の伊藤さんがここまでしなければならなかった(ここまでの映像が事実として残っているのに検察がストップをかけた)ことに、社会の深い闇があることを実感させられた。視覚的な衝撃というのはすさまじいもので、もともと少なからずあったその弁護士への意見が、その後はさらに厳しくなっている模様。ざっくり書くと、モザイクをかけるなどの工夫がしてあるのだからこれでもいいじゃないか、これを出さなかったら伝わらないという決意をしなければならなかった伊藤さんをわかってやれよ、的なものである。
たしかに映像はすさまじかった。正常な判断力を失ってしまいそうになる。しかもわたしは見ようと思って見たのではなく、目の前にいきなり流れてきたのだから、無防備な精神状態に内容がグサッと刺さった。
だが、弁護士さんの気持ちはわかる。
多くの人にとって伊藤さんがされたこと、闘わなければならなかったこと、映画を作ってもなお批判されることに対しては、思いを馳せやすいものだろう。だが弁護士さんにとって「一緒にサインしたのに」という、弁護士としての矜持に関わる部分がないがしろにされたという思いもまた、程度については素人に計り知れるものではないが、やはり考慮しなければならないことで、安易に軽んじる発言をしてよいものではない。
気持ちはわかる。双方の気持ちがわかる。
そこで、旧Twitterではあらたに、加害者の実名を出して悪いのはこの人であるという意味のタグができ、大はやりになっている。いや、それも違う。たしかに原因の大元はその人なのだが、実名を出していちばんの悪人であるとタグでさらすのは、それもまた違うのだ。憎しみを増やすだけではなんの解決にもならないし、そもそもネットを通じた集団リンチである。
本来なら…狙うべきは不起訴の判断をした人に反省してもらうことである。だが日本は公務員を職務中の行為に関して罰する法律や慣例がないらしく、これまでも今後も誰も責任は取らない。だいたいその不起訴判断をした人は出世ののちに現在は辞職して民間人である。では、どうしたらいいのか。
そう簡単に答えは出ない。ともあれ、やっていいのは自分が「誰の味方であるか決める」ではなく、せめて伊藤氏がなぜその行動に出たか、弁護士がなぜ声を荒げているかを、多少の想像力をもって見守ることである。