東京は広い

 最近はそういう話をしなくなっていたのだが、田舎の母は毎年「高尾山さまのお札」なるものを入手して、わたしが東京に出てからもよくわたしの分まで渡してくれた。

 それってあの高尾山(京王線などで行く)のことだろうかと「何がきっかけで信じていたの」と電話のついでに聞いてみたことがあるが、この数年はお札を新しくできていないと、悲しそうに言う。体の自由がもっとあったころは、誰かに頼むか郵送を頼んでいたのかは不明だが、毎年でないにせよ新しくしていたのだという。

 自分が不信心なのに代理でそういうことをしていいのかはわからないが、とりあえずインターネットで「高尾山」と入力しして場所を見ると…うっ、電車を乗り換えてケーブルカーに乗ったあとに、20分歩く!? すごいぞ。母は若い時分には誰かと連れだって宿泊をしてこともあるのだそうだ。おそらく父方の祖母か、父方の誰かが信じていたらしく、父が若いころに病気をした際に高尾山さまに祈ったという話をそういえば子供のころに聞いていた。

 真剣な人が相手であるのに旅行感覚で訪れてお守りを買っていいものなのかどうかわからないが——(母の言うような「お札」なるものはいきなり買えるのかわからないが、お守りは売られているらしい)、もし母が望むのなら、高齢で体調もよくないので、出かけてみてもいいかもしれないと思っている。信心がなくても、訪れて怒られることはないだろう。

壁掛け時計の買い替え

 30年ほど使っていた壁掛け時計が寿命を迎えた。たしか当時わたしが親しくしていた生命保険会社の社員さんが、お祝いにくださったものだった。電池を交換しながら使ってきたが、このところ電池にかかわらず遅れや停止が見られるようになったので、似た雰囲気のものを近所で買ってきた。

 色合いが違うが、シンプルな雰囲気がよく似ていると思う。左側が引退するもの、右側が今回購入のもの。
壁掛け時計、世代交代

 直径はだいたい20cmくらい。

 くださった方が在籍していた生命保険は、会社勤めをやめてからは少しずつ減額しながら継続し、そろそろ一部の支払いが終わる年齢に近づいてきた。人生というのは、いつのまにか長い時間が流れているものなのだな。

信心とか、祟りとか

 実話怪談系の短編集がKindle Unlimitedにたくさん出ているので、暇さえあれば読んでいる。つらつら読んで「あ〜、これはいままでなかった展開だ」などと軽く流すことがほとんどだし、最近では「留守のとき動画にこれが残っていた」など、近代的な描写も増えてきたので、この先もあれこれ描写は進化していくのだろう。

 だがときおりどろどろしたものに出くわす。そんなときつくづく感じるのは「まじで怖いのは人間関係」ということだ。

 たとえば世間的な目から見て「体調が悪ければ病院で診てもらうのがよいのでは」と告げても、相手が違うことを言ったとする。たとえば本人またはその身近な人々が「病院は関係ない。原因はきっと先日○○のあたりで祟られるようなことをしてしまったためなので、本人が無理なら誰か(あなたでも)代わりにお詫びの花を供えてくればよくなる」と言い張るとする。そこで優しい人なら、あるいは人間関係として逃げ場がないほど密接している間柄なら、それで気が紛れるならと花くらい供えて来ようかと思うかもしれない。だがそれをもしわたし本人が言われたら、本心は「まっぴらごめん」である。

 自分が納得できないことをひとつでもやってしまったら、もし次に「来週はこのお花をお願い」とか「お花より果物を」とか、どんどん納得のいかないことにつきあうことになり、やめ時がわからなくなる。

 だが実際問題として、同居家族または密接につながっている親戚などの人間関係、いわゆる村社会などのなかでは「信じていなくても、言われたことを付き合いでやっておくほうが無難」的な判断に直面しなければならない場合もある。断ったら「たったそれだけの頼みも聞いてくれなかった」とうじうじ言われて、感情のしこりになるかもしれない、と。

 はじまりのよくわからない祭りやしきたりも、もしかしたらひとつずつのことが積み重なっているだけで、原点を理解している人が少ない場合もあるだろうが、参加しなかったら何かあるかもという思いで同調している人もいるだろう。

 祟りかもと信じている人が気の毒だからとか、断ったら問題があるからとか、そういったことで自分が納得できないことに協力すると、周囲から見ると「ほら、やっぱりみんな祟りを信じている」になってしまう。それが積み重なって次の世代に行くし、周囲への影響力も消えずに、濃縮されたまま引き継がれる。

 別に神社や墓をないがしろとか、村社会のしきたりは無意味だとか、そういったことを言っているのではなく、根底にあるのは「人に頼まれごとをしたときに断ったら、なにかあるのでは」という自分の内側の恐怖めいたものなのだと気づくことができたら、その都度の話し合いで感情のしこりが残らないようにしながら次に進んでいけるはず、ということだ。

 もっとも、それがそんなに簡単なことではないから、いつまでたっても人間関係は複雑で、すっきりすることはないのだろう。

Amazonで成城石井を呼ぶ

 前回思いがけず2000円のギフトを入手したので呼んでみた成城石井だが、2000円以上買えば送料390円(到着希望時間帯を狭めると890円)なので、今回は洋風惣菜ふたつ、和風カップデザート、市販焼き菓子の計4点で注文。

 惣菜のひとつは、ビリヤニ1人前。分け合いながら食べる予定で購入。もうひとつはスペイン風肉団子。どちらも温めるだけで食べられる。近所のスーパーなどにある惣菜や弁当に飽きたら、割高ではあるが、こうしたものはおすすめ。

 前回はパン類と惣菜、デザートなどを買ったが、探すときは「成城石井 自家製」と入力すると、社内調理品または契約先の商品が見つけやすくなるので、市販の(普通に近所で買えるような)ものを除外して探すのに役立つ。

 くせになってしまいそうな便利さだが、以前は配達範囲外で利用できなかった。開始から数ヶ月して、わが家のあたりも利用できるようになった。これからもたまに頼んでしまうと思われる。

困っているときは、助けてもらう

 日曜の昼から、わりと簡単にできると思っていた作業(ある場所でのメニュー日本語化)でつまづいて、2時間無駄にしてしまった。なぜできないのかが、自分の知識不足なのか使っているソフトやパソコン環境のせいなのか、何が悪いのかがわからないままの2時間は苦痛である。

 自力をあきらめて、知っていそうな人にメッセージを飛ばしたが、日曜の昼なのでこんな用件にすぐ返事がいただけるとは思っていない。そこで夕方にあらためてメッセージを送り、自分のやろうと思っていたことはこれこれなのだが、代わりにやってもらえないかとお願いした。その後、対応していただけた。ありがたい。

 考えてもだめで思考が固まってしまったときには、自分の時間の無駄というよりも、まず「もっと早くできる人がいるのならお願いした方がみんなのためだし、自分の精神衛生上もよい」と、気持ちを切り替えるようにしている。以前はそんなことはなくて、できるだけ自分でかかえようとしていた。なにせ数年前までのわたしは悩むといっても自分の管理するウェブサイトなどの用件がほとんどで、仮に作業が遅れたところで、見に来てくれるお客さんはわずかな知人らだけだったためだ。

 困ったら、誰かに聞いてみる。助けてもらう。もっとこれを上手におこなっていきたい。

大量の迷惑電話

 福島県の飲食店、学校、役所などに、中国からの国際番号で多くの迷惑電話がかかっていると報道があった。

 どれほど苛立ちがあっても、それをおこなったわけではない一般人や学校などに迷惑行為をしていいはずがない。また、仮に政治家や東電に文句があるにせよ、もっと違う方法がいくらでもあるはずだ。
 迷惑電話は、本人がそこに出向く必要がない分だけ、自分は安全な場所にいて相手だけを傷つける卑劣な行為である。

 以前なら国際電話も料金がそれなりにかかったため、こういう手段に出ることは多くなかったのかもしれないが、最近はネットアプリ経由やIP電話などを利用した格安なプランもあるのだろう。

 嘆かわしいことだ。

そろそろ高円寺の阿波踊り

 わたしが最初に高円寺に住んだ時期(数十年前)は、当日の踊りのさなかであっても「ちょっと歩きづらい」程度で、駅から普通に徒歩で帰宅できた高円寺の阿波踊り。それから年を追うごとに徒歩でも進めない区間(阿波踊りの連が専用に使う場所)が増えて、遠回りで帰宅するのがおっくうで、混雑時間帯を避けて帰宅したものだったが、最近はどうなのだろうか。

 4年ぶりになるので、おそらくこれまで以上の見物客が集まると思われる。

 2019年に阿波踊りの当日だと気づかず昼ころ駅に近づいてしまった。飲食に関係ない店は、阿波踊りがはじまる前の時間帯(昼くらいまで)に閉じてしまうような張り紙があった。少しでも飲食に関係ある場合は店の入り口に臨時のテーブルを置いて飲み物を販売することもあるが、無関係な店は一般客がはいってくるわけでもないので、閉じたほうが安全なのだろう。
 そのあたりを歩いていた近所の人たちが「(昨日は)JCOMで見た」、「すごそうだったね」、「昔はちょっとくらいなら歩いて踊りを見ることもできたけれど」と話していたのを、当時の日記にメモしていた。

 今年も、駅には近づかない。このところ人のいる場所がほんとうに苦手になってきたが、年齢のせいだけではないだろう。もっと直感的な問題として、なにやら「怖い」のである。

「しっかり」ではなく「ちゃっかり」

 福島の原発処理水海洋放出があわただしく決まった際、近くにいた人が、政府は “「しっかり説明」とかいつも言うけれど、やっていることは「ちゃっかり実行だ”と、名言を吐いた。なるほど。たしかにそうである。

 この何年か、しっかりと、という言葉の質が下がった。何も説明せずに「しっかりと説明をしていく」が増えて、聞いても「何も説明しないし、思いとどまることもたぶんない」と、聞く側があきらめてしまうことも増えている。あきらめるのを待つまで「しっかりと」を言いつづける作戦かと思うので、やはり抗議はつづけねばならない。

 Weblio経由でデジタル大辞泉の「ちゃっかり」を見ると、
> [副](スル)自分の利益のために抜け目なく振る舞うさま。「案外—している」

 ……とのこと。口語で「ちゃっちゃかやる」という表現があるが、さっさとやってしまうという意味と推測する。今回の「ちゃっかり」と、何か関係があるのだろうか。ちゃっちゃかやるは辞書のサイトで紹介されていないことが多く、たしかなことはわからないが、関係はあるかもしれない。

くじ運はともあれ、雨は当たる

 昼過ぎに近所のクロネコ営業所に出かけた。家を出る直前「いちおう傘を持っていくか」という程度の雨だった。

 ところが数十メートル歩いたところで、ただ事ではない気配に思わず傘を持つ手に力がこもった。営業所に到着するころには大粒に。どうにか土砂降りは免れて、スマホで予約しておいた伝票をその場で印刷し、支払い。目の前に、質問なのか長話なのか不明な高齢女性に係員がつきっきりになっていたが、幸いなことに奥から別の人が出てきてくれたので、あまり待たずに済んだ。

 クロネコ営業所をいったん出て帰宅し、すっかり濡れてしまった靴に新聞紙を入れるなどして水分をとり、夕方また別の用件で近所に。

 すると帰りに、同じ場所(数十メートル)で降られた。なんたることだろう。幸いにも土砂降りではなく、家に逃げ込むことができた。

 1日に2回、同じ場所で雨に降られるとは。そしてそれがかなり短時間のスポット的な雨だったことを思うと、そんな巡り合わせは宝くじにでもまわしたいと、真面目に考えた。

阿佐ヶ谷の「しまむら」まで

 実母が服を買いたいというが、年に2回届くいつものシニア向け通販では、そろそろ夏物は売り切れ。いつもぎりぎりに言ってくるのでこうなるのだが、高齢者にしてみれば早め早めに買わないと服も手に入れられないというのは気忙しく、もたもたしているうちにこうなってしまうのだろう。

 そこでわたしがひとっ走り、阿佐ヶ谷のしまむらまで。南口のピーコックの上階で、地下はダイソーという便利な場所にある。実はつい先日までこの店で買ったことがなかった。わたしは服を買うのがあまり好きではなく、中を見ただけで買ったことがなかったのだが、安さと庶民的な感覚が気に入って、義母のものも含めて何か必要なときはここを見ることにしたのだ。

 シニアは小柄な商品が人気なのか、夏物の品はあったが残っているものの多くがL以上〜3Lなど。母はMでも大きいくらいなのでなんとかMを探した。それにしても、商品の価格帯が安いのでたすかる。母が通販で買おうとしていた価格帯の半額以下なので、服が2枚ほしいと言っていたが4枚買ってもまだ想定の予算内だった。

 わたしはまだ足がアテロームの切開後まもなくで思うように動かず、購入したものをクロネコまで持っていくことは断念した。1日遅れるが、喜んでもらえることを祈る。