実話怪談系の短編集がKindle Unlimitedにたくさん出ているので、暇さえあれば読んでいる。つらつら読んで「あ〜、これはいままでなかった展開だ」などと軽く流すことがほとんどだし、最近では「留守のとき動画にこれが残っていた」など、近代的な描写も増えてきたので、この先もあれこれ描写は進化していくのだろう。
だがときおりどろどろしたものに出くわす。そんなときつくづく感じるのは「まじで怖いのは人間関係」ということだ。
たとえば世間的な目から見て「体調が悪ければ病院で診てもらうのがよいのでは」と告げても、相手が違うことを言ったとする。たとえば本人またはその身近な人々が「病院は関係ない。原因はきっと先日○○のあたりで祟られるようなことをしてしまったためなので、本人が無理なら誰か(あなたでも)代わりにお詫びの花を供えてくればよくなる」と言い張るとする。そこで優しい人なら、あるいは人間関係として逃げ場がないほど密接している間柄なら、それで気が紛れるならと花くらい供えて来ようかと思うかもしれない。だがそれをもしわたし本人が言われたら、本心は「まっぴらごめん」である。
自分が納得できないことをひとつでもやってしまったら、もし次に「来週はこのお花をお願い」とか「お花より果物を」とか、どんどん納得のいかないことにつきあうことになり、やめ時がわからなくなる。
だが実際問題として、同居家族または密接につながっている親戚などの人間関係、いわゆる村社会などのなかでは「信じていなくても、言われたことを付き合いでやっておくほうが無難」的な判断に直面しなければならない場合もある。断ったら「たったそれだけの頼みも聞いてくれなかった」とうじうじ言われて、感情のしこりになるかもしれない、と。
はじまりのよくわからない祭りやしきたりも、もしかしたらひとつずつのことが積み重なっているだけで、原点を理解している人が少ない場合もあるだろうが、参加しなかったら何かあるかもという思いで同調している人もいるだろう。
祟りかもと信じている人が気の毒だからとか、断ったら問題があるからとか、そういったことで自分が納得できないことに協力すると、周囲から見ると「ほら、やっぱりみんな祟りを信じている」になってしまう。それが積み重なって次の世代に行くし、周囲への影響力も消えずに、濃縮されたまま引き継がれる。
別に神社や墓をないがしろとか、村社会のしきたりは無意味だとか、そういったことを言っているのではなく、根底にあるのは「人に頼まれごとをしたときに断ったら、なにかあるのでは」という自分の内側の恐怖めいたものなのだと気づくことができたら、その都度の話し合いで感情のしこりが残らないようにしながら次に進んでいけるはず、ということだ。
もっとも、それがそんなに簡単なことではないから、いつまでたっても人間関係は複雑で、すっきりすることはないのだろう。