ハプスブルク展、10月に上野で

 ハプスブルク家に関しては、何冊の本を読んだかわからないほどだ。だが最近よく読んだものを忘れるので、あれほどの量を読んでも少ししか頭にはいっていないのだが——。
 その大好きなハプスブルク家の展覧会が、上野で開かれるということで、前売りを買っておいた。https://habsburg2019.jp/

 13世紀のハプスブルク家は、家柄としてはさほど目立たない存在だった。いまで言う「名ばかり管理職」と書いては失礼かもしれないが、誰がローマ王(神聖ローマ帝国の君主)がいいだろうという話になったとき、お鉢がまわってきたらしい。周囲はもしかしたら、その後は話し合いで持ち回りをしながらローマ王を決めていけると思っていたのかもしれないが、そうはならなかった。ハプスブルク家は子供たちを積極的な婚姻外交のため諸国に送り出し、またたくまに力を付けていった。そして19世紀までの約600年間にわたり、ヨーロッパで権勢を誇った。

 逸話としてだけでなく、絵画や建築物、食文化など、ハプスブルク家の繁栄の中で生まれ、引き継がれてきたものは数多い。

 ちなみにこの絵画の作者ベラスケスはとっくにお亡くなりなので、著作権が切れている画像がネットでよく検索できる。幼少から少女時代まで数多くの絵画に登場している「マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ」さんである。Wikigalleryからダウンロードした。

少女時代の「マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ」 by ベラスケス

 いつも美術館では、展示の最後に位置している土産コーナーをほとんど見ないが、こればかりは、きっと何か買ってしまいそうな予感がある。10月が楽しみだ。

新明解国語辞典(アプリ)

 iPhoneアプリとして日本語辞書を買った。新明解か三国(三省堂国語辞典)かを迷っていたが、ファミリー共有で一緒に使える家族が「新明解がいい」と言ったことと、わたし自身も「新明解には音声ファイルがはいっているらしい」という情報を得ていたので、そちらを選ぶことに。

 さっそくインストール。
 動作も軽く、さくさくと快適である。単語の読み上げ音も、たしかに出ている。新しすぎる表現は載っていないような気がするが、それはいつか新語に強いと評判の三省堂国語辞典を買うことがあったら、比較してみるとしよう。

 さて、数年前から使っているファミリー共有については、ちょっと勉強になった。Mac OS(デスクトップ)のApp Storeでは自分のカードを登録しているが、iOSのApp StoreとiTunesでは、もしやわたしはカードを登録していなかったらしい。辞書を買おうとしたらカード番号はこれでよいかと、家族のカードで確認が出た。AppleとApp Store/iTunesは、別会社という扱いで、どちらにもカードを入れておけということか…。

(翌日追記: 最下部に追加)

 たしかに、iOSのApp Storeで無料アプリを落とし、そこからアプリ内課金をした記憶はあるが、それはだいぶ前のことだ。あれはファミリー共有の設定をする前の話だったのかもしれない。

 クラウドの容量追加で自分のカードから料金を払っているのだから、そのために入れているカード番号がiOS用のApp Storeでも使われているのかと思っていた。だが今回の支払をしようとしたところ「ファミリー共有なので、最低でも1枚のカード情報を」と、家族のカードが表示されてしまった。面倒なので今回はそのまま払ってもらった(←悪人)。

 あれこれ考えたが、Mac OSで使うApp Storeや、iPhoneのクラウド増量の料金は、Appleに対して登録してあるカードで、iOS用には別に登録しておかなければいけなかったということなのか…?? 同じApp Storeでも、Mac OSとiOSで、運営会社が別だということなのか。Mac関連で使っているIDはひとつしかないと思うのだが、もしやパソコン用とiOS用で別のIDを使っている——なんてことが、あるはずないな。うぅむ。よくわからない。

 ともあれ、共有設定をした人のアカウントからしかクレジットカードを追加できないようなので、次回のために自分のカードも、入力してもらった。これで次回からはどちらのカードから払うかが選べることになるのだろう。

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翌日追記:
 やはり、この数年の確認できる範囲では、わたしはどちらのApp Storeにおいても、ダウンロード時に料金がかかるようなものを注文していないようだった。それ以前については、思い出せない。

 月々のクラウド容量追加料金だが…これは家族のほうに請求がいっているらしい。最初からそうだったのだろうか…。
 なにやら政治家の答弁のようなことになってきた。

マイ・ブックショップという映画の「マイ」

 本題はThe Bookshopでる映画を見た。邦題はマイ・ブックショップである。だが最後まで見た人ならわかるが、あれは「マイ」がついていると意味合いがおかしな映画となってしまう。

 海岸沿いの田舎町に、古い家屋を買い取って手入れし、書店を開く女性の物語だ。保守的な土地柄で女性が書店を運営するとなれば人にあれこれと言われることになるだろうが、彼女はやる気に満ちていた。
 ところが地元の資産家夫人は、自分より目立つことをする人間が大嫌いであったらしく、実にあの手この手で妨害してくる…そんな話である。

 なぜタイトルに、安易に「マイ」をつけるのか。いまにはじまった話ではない。2004年に伝説の子役(当時)であったダコタ・ファニングを警護していて誘拐された男(デンゼル・ワシントン)が荒れ狂って相手方に殴りこみをかける映画があったが、あれもなぜか「マイ・ボディガード」。これはボディガードという有名な映画がすでにあったためにマイをつけたわけではなく、原題は Man on Fire であり、手がつけられないほど興奮または怒っている状態の男である。

 内容をよく覚えていないのでタイトルのみ書くが、原題がThe Internで邦題がマイ・インターンもあったし、20年ほど前には原題がThe Mightyで邦題がマイ・フレンド・メモリーというのもあったような、おぼろげな記憶。気になったのでGoogleで「マイが付いている映画」と検索してみたところ、ほかにもけっこうあるようだ。
 もちろんマイライフとかマイフェアレディに文句を言うつもりはないが、付けなくてお良さそうなところでなぜマイを付けてしまう傾向があるのか、あらためて気になった。

日本の道は、せまい

 トラックとの衝突による京急線の脱線事故(トラックは炎上)のニュースを読んでいる。痛ましいことだが、話の流れが「衝突せずに済む方法(もっと早く運転士がブレーキをかける方法)はなかったのか」という点に向かってしまいがちなことを、残念に思う。
 車の運転をしない人間の率直な感想としては、適切な場所で曲がり間違えたトラックは、その直後になんとか解決策を見つけられなかったならば、せますぎる道にはまって身動きがとれなくなることがあるという残酷な事実だ。それが今回のように死につながってしまう場合もある。
 そもそも間違えなければよかったと、思う人もいるかもしれない。直後に方向転換をすればよかった、と。だがうっかりは、誰にでもある。道が混んでいれば引き返すことも難しく、その先までいけば何とかなるかと考えてしまう場合もあるだろう。

 日本の道は、せまい。それなのに都市部でも車が多すぎる。
 今後も東京など大都市圏への人口集中の傾向は止まらないのだろうが、いったんは近郊や近県に混雑の要因(労働環境や大型の公共施設など)の役割分担を頼み、そのあいだに中心部の道路拡張などをしたほうが、よいように思う。
 あるいは一時的ではなく恒久的に、近県にさまざまな役割分担を頼んで、東京中心部から人を減らしたほうがよいだろうが、もはやそれはなさそうな雲行きである。

昔の事件と、世間で薄れていく記憶

 現在進行中の事件では「まだ確定していないのにネットで個人を犯人扱いしてどうする」と、じゅうぶんに気をつけなければならないことだと警鐘を鳴らしてくれる人たちがいる。それでも誤解から他人を名指しして大迷惑を起こす人たちもいる。

 だが、いったん人の関心から薄れてしまった事件はどうだろうか。検索しても間違った内容ばかりがセンセーショナルに語られている場合がある。
 たとえば、わたしの母が馴染みのある土地で、20年ほど前に非人道的な事件があった。子供がひとり死亡し、姉は助かったが、ふたりとも幼児である。ときどきそのことを思い出して「あれは何年前だったか」と検索するが、検索される内容は時代とともにかなり減っていて、しかも失礼なことには、尾ひれをつけた話のあげく現場を心霊スポット扱いにしているサイトさえも。
 その検索の過程で、犯人(まだ服役しているか出所を勝ちとったかは不明だが、事件直後は無期懲役と噂されていた)の名前と事件の経緯、人物像のようなものを書く掲示板が、いくつか残っていることに気づいた。だが事件の顛末でさえわたしが母から聞いていた当時の話とけっこうずれていて、わざと話をごまかそうとして伝言ゲームをしたのかと思えるほどであったのだから、犯人名がどれほど正確だろうか。

 漢字まできちんと合っているかどうかなど、誰にもわからない。もしや音が似ているだけで名前が微妙に違うことすら考えられる。ましてや噂話の検証のためだけに、図書館や新聞社に出かけて20年前の裁判記事を読む人はまずいないだろう。そして日本では20年も前の記事をオンラインで検索させてくれる新聞社は、ほぼない。
 デジタル化が進んで有料会員に便宜を図るようになったのは、もう少しあとの時代であるから、今後の記事は20年後に検索できるかもしれないが、20年前のものはなかなか難しい。

 そして、そのいい加減な記憶のままに「あの人と名前が似ている」というだけで犯人の家族扱いされてしまう人が出ないとも限らない。

 襟を正して落ちついた行動をとるべきなのは、最近の事件だけではない。ネットで書かれている内容で裏もすぐにはとれないような古い記事こそ、かなり慎重にならないといけないと、肝に銘じよう。

ケロッグと味の素、60年の関係を解消

 シリアルは好きな銘柄があるので、ケロッグをとくに買っているというわけではなかったのだが、60年連れ添った味の素に、ケロッグが来年3月でお別れを言うそうである。
 


 
 次は、どこから出すのだろうか。ケロッグが日本の食卓からなくなるわけではないだろうが、毎日どうしてもケロッグという人はいるかもしれず、わたし個人もちょっと気になるので、早めに教えてほしい(^o^)。

高円寺駅北口の銀だこが閉じたらしい

 ネットで見ただけなので跡地などを確認したわけではないのだが、北口の純情商店街にはいってすぐの場所にあった銀だこが、8月30日で閉じたとのこと。

 わたしは1回だけテイクアウトに使ったが、店内に椅子もあって、飲み屋のような雰囲気になっていたと思う。検索してみたところ、オープンは去年の5月だった。
 勝手な想像だが、持ち帰りをメインにもう少しせまい店舗を探せばよかったのではと、思ったりする。元は花屋だった場所で奥行きがあり、椅子をたくさん置きたくなったのかもしれないが、なかなかたこ焼き屋で潤沢に利益が出るほど飲み食いする人もいないのではないかと考えた。実際、中野などの近隣店舗は、高円寺の店より狭かった。
 あるいは、もっと突然の、切羽詰まったような状況が生じたのだろうか。簡単な貼り紙で、退店の挨拶があったとのこと。

「上を向いて歩こう」が聞こえてきた

 実はAvicii(アヴィーチー)のファンである。普段ほとんど音楽を聴かないため、情けないことだが去年になって初めて、彼の死亡のニュースで存在を知った。すぐさま検索し、Wake Me Upの動画を見かけて引きつけられた。直後からアルバムをiTunesで何枚かダウンロードして、くり返し聞いている。

 この6月に出たらしい最後のアルバムTIMに最近まで気づかなかった。数日前に室内バイクを漕ぎながら、iTunesで曲をチェックしていて見つけた。聞きながらぼんやりと考え事をしつつ、バイクを漕いだ。そして何曲目だっただろうか——曲の途中から、懐かしい旋律が。わけがわからず、心が強く揺さぶられた。
 坂本九の「上を向いて歩こう」だった。英語圏ではSukiyakiというタイトルで知られていたという。あまりにも予想外で、突然すぎて、バイクを漕ぐのをやめて曲名を確認した。間違いなくAviciiのアルバムだ。その間奏部分は完全に彼のの曲の一部となり、自然に溶けこんでいた。

 AviciiことTimが、2011年の東日本大震災であの歌に救われた日本の人びとのことを、知っていたのかどうかはわからない。だがわたしの心はあの心細かった日々、何らかの光が見えればついていきたいと願っていた人びとの前に灯台のように現れたサントリーのCMの日々へと、まっすぐに向かった。

 いまの世の中、気の滅入ることが多い。だが「上を向いて歩こう」と、これからも思いたい。
 あの曲を、とりあげてくれてありがとう。天国のAviciiに、それが言いたい。

ミニブログとして「てがろぐ」を設置

 バウムクーヘンの情報をまとめるため作っていたサイト「日々バウム」のソフトウェアを変更する話は、先週こちらに書いた。だが代わりが思いつかなかった。もう、何年でもつづくものがいいとか、たくさんの人が集まれるものがいいとか、そういう尺度で考えないほうがいいと身にしみていたので「自分も周囲も気楽が一番」と考えをあらため、ちょっと人と集まれるような掲示板はないかと検索。すると、何ヶ月か前に一度ダウンロードして、ひとまず忘れていた「てがろぐ」さんを思い出した。

 なぜ忘れていたかというと、ローカル環境で実験しようとしたが、そのときMAMPの調子が悪く、時間がかかりそうだったのだ。使うかどうか決めていないものをネットでいきなり実験するのもどうだろうかと、そのうちMAMPを確認してからテストしようと思いつつ、忘れていた。
 だが今回は、そんな悠長なことを言っていられない。さっさとこれまでのソフトウェアから乗り換えて新しい交流の場を作りたいと、急いでいた。そこでレンタルサーバにすぐさま「てがろぐ」を載せてみたら、何の問題もなく動いた。拍子抜けするほど問題がなかった。軽く動作確認をし、多少のカスタマイズののちに、数時間以内に公開できてしまった → バウムの書 and 日々バウム内、ミニブログへ。

 てがろぐを提供されている方には感謝感謝と思っていると、管理メニュー内に「作者にコーヒーをおごる」というメニューを発見。さっそくAmazonギフトカードEメールタイプから、スタバは無理でもドトールくらいは飲めそうな金額を贈らせていただいた。
 あ〜、こんなにストレスを感じない作業で新メニューができるとは、楽しくて仕方ない。
 

国民年金が、しみじみ「高い」

 最近は便利な世の中になったもので、こまめに銀行で記帳しなくとも銀行アプリをスマホに入れておけば、残高くらいはすぐわかるようになっている。

 月末の残高が、とても区切りのよいもの(端数があまりない)だったので、そういう状態が好きなわたしはひそかに笑みを浮かべていたのだが、月頭の週明けで、その「○○万円(端数が少なめ)」状態が、がくんと減って、見苦しい状態に。おやおやクレジットカードはまだだぞ、いったいなんだ、17000円近くがいっきょに…と思ったら、国民年金だった。

 正確には、16,410円である。会社勤めをやめて国民年金になってから年数はけっこう経つが、その間に世の中の時給が大幅に上がったような気はしないのに、毎月の年金はしっかり上昇。しかもこの金額、20代だろうと50代だろうと一律だ。
 仮に社会人になってまもなくフリーランスとなった若者は、これを払えるのだろうか。いまの若い世代は、自分たちが年をとるころにその額が返ってこないかもしれないわけで、正直なところ払えるかどうかよりも、払いたくないだろうと想像する。

 人口が減ることも予想ができていて、会社の終身雇用制度がつづくわけがないともわかっていて、それでも年金制度を従来のままに放置してきたツケが、若い世代にまわっている。
 労働力の先細りで、サービスや製造ができなずに廃業した業種もあるなかでさえ、日本が外国からの労働力拡充に積極的でないうちに、好機は流れてしまった。現在では外国人労働者はほかの国を選ぶようになってきている。日本には、お願いしないと来てくれない状況だが、いまだに政府はできるだけ来てほしくないかのように、条件を厳しく設けている → 例: 東京新聞 2019.08.29 「日系4世ビザ」高い壁 年4000人の来日想定… 現実は33人

 若い世代に夢がある社会と思えないのだが、若い人たちはどう思っているのだろうか。