小松左京の短編「召集令状」

 数日前に、名作「くだんのはは」の収録されている短編集で、できればKindle Unlimited対応ものはないかと検索したら、これがあった。

 現在の日本の世相と比較しながら読むのもよろしいかと。
 短編なのでネタは書けないが、ほとんど戦争を知らない世代に、次々に召集令状が届いて、その予告された日付と時刻になると、どこかへ消えてしまうという話。ひとり、ふたりではなく、日本の国全体でそれが起こる…。

 小松左京は著作が多いので、何かしらの作品がKindle Unlimitedの対象になることが多い。借りたままにしておけば、それが対象からはずれても読んでいられるので、タダになったタイミングで落とすとよいと思う。10冊までキープしておける。

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立花隆氏の訃報に

 氏の名前を耳にして、どういった書籍名を思い浮かべるかは人それぞれと思うが、わたしはおそらく「臨死体験」以外に、最後まで読み終えた本がない。それが読み通した唯一のものであるため、氏について人物は語れないが、本はかなり印象深いものだった。厚い本で、処分した記憶はないので、家のどこかにまだあると思われる。

(画像はAmazonから、Kindle本へのリンク)

 本の構成としては、かなりの分量を、臨死体験のインタビューに割いていた。そしてさまざまな考察を、これまたあちこちの書籍や著者インタビューなどを通じてつづっていた。読み手であるわたしは、頭にはいりやすい状態になったデータベースを文字で見せられているようで、「いったい何人で働いているのだろう(著者名は立花隆氏ではあるが、協力スタッフは何人いるのか)」など、氏の取材力と人脈とに、圧倒させられた。

 80年代ころだったと思うが、日本ではやたらと「ユングとフロイト」が流行った。わたしも何冊か本を買って読んだ。小此木啓吾氏(フロイト研究)、河合隼雄氏(ユング研究)の本もかなり出版され、わたしはそれらも何冊か読んだと思う。いや、何冊かどころではなく、かなりはまっていた。とくにユング派とされる研究者の本(翻訳本)も、書店で見かければ購入していた。

 その後、ユング関連本からは、少し遠ざかっていた。

 2000年代はじめに、この「臨死体験」を読み、否応なしにその世界に引きずりもどされた。やはり心理学的な話とは切っても切れないものだからだ。
 体験をした人々は、それまでその人たちが意識していなかったはずの、不思議なことを語りはじめる。それはご自分たちの意識していない深層心理、あるいは周辺の人々やコミュニティに語り継がれてきた、集合的な記憶によるものかもしれないが、なんらかの共通項があった。そしてその「不思議」を整理していくと、光るもの、飛ぶものなど、どこかUFOめいたも話も、混じってくる。
 UFOだなんだといっても、著者はオカルトな流れに読者を安易に誘導するのではなく、体験者の住環境、年代、性別、宗教観などがさまざまな場合でも、話に何らかの共通項がある体験が語られるはなぜだろうと、またもや膨大な書籍や、体験事例を紹介していく。

 読みやすい本だった。楽しめた。
 20年近く前に読んだので記憶違いもあるかもしれないが、わたしにとって立花氏の「臨死体験」は、複雑であるはずのものを平たく可視化してもらった印象だった。

 家の中を探すか、Kindleでまた買って読むか。ひさびさに読んでみたくなった。

(最後ではありますが、立花隆氏のご冥福をお祈りします)

「ながら」を探して

 子供のころに、暗記するほど読んでいた本をAmazonで見つけて、購入したのが最近。
 童心社「むかしむかし」という、こちらの本。

 P.132からはじまる「したきりすずめ」で、すずめに謝ろうとして歩いているおじいさんが、うまあらいの人を見つけ、道を尋ねる。すると相手が「このうまのあらいしるを、七おけながらのんだら、おしえてやろう」と答える。え…なんですかそれ、罰ゲームにしても意味不明すぎ。だいたいこの人はすずめの家族でもないだろうし、おじいさんを困らせる理由はないはず。からかうにもほどがある。

 …しかも「七おけ(おけに強調の傍点)ながら飲む」の、ながらは、なんだろう。

 まずは子供心に、「ながら飲む」という単語があるのかと考えた。あるいは「七おけながら、飲む」だとしたら、「七おけ”ながら”ってなんだよ」と。

 誤植や著者の書き間違いでない証拠に、おじいさんが馬の洗い汁を飲んだあと(←うぇぇ〜っ)、うまあらいは「むこうのうしあらいどんに聞いて」と言う。またうしあらいどんは「うしのあらいしるを、七おけながらのんだら」と返す。おじいさんは、また飲む。

 …この「ながらはどこにかかるんだよ問題」は、読んでから何十年も経過していたものの、やはり現在も引っかかっていた。記憶違いでないことを確認してからネットで検索したが、別にそんな方言はなさそうだった。仕方がないので新明解の辞書アプリに頼ると、古い言い回しとして最後に注釈が。
 > 「その同類が、そろってそのまま同じ状態にあることを表す」意の古風な表現。「兄弟三人——(=とも)政治家になった」 
 けっきょく、これなのだろうか?

 あるいは「小学生ながら大学卒業資格を得た」などの場合の「ながら」だろうか。普通は無理だろうけれどないとは言い切れないというときの「ながら」…ということか?

 それにしても、うまあらいどん、うしあらいどんは、自分たちがすずめの敵討ちをしているわけでもないのに、謝りに来たおじいさんに、七おけは無理だろうけど飲んでみたら教えてやるよというのは、あまりに人間としてふざけている。
 で、こんなふざけている話なのに、それに対する説明がなく話は進み、そして終わる。

 昔話とは、不可解である。

ユリ・ゲラーが小説を書いていた

 昨日たまたまある本を読んでいたら、ユリ・ゲラーは4作ほど小説を書いたことがあり、処女作のEllaはそこそこ売れたらしいという話が載っていた。

 Kindle版はUnlimitedで0円、購入で300円らしい。いちおうUnlimitedの枠が残っているので、ダウンロードしてみた。まだ冒頭のみしか読んでいない。

 ユリ・ゲラーといえばスプーン曲げ。そして初期はスプーン曲げの人だったのに、いつしかリモート・ビューイングもできますよやら、日本の宜保愛子と一緒に外国ロケをするやら、さまざまな展開でお茶の間を楽しませてくれた。そして昨年(2020年)だったかと思うが、ポケモンに出てくるモンスター「ユンゲラー」がスプーンを持っていることから、自分を揶揄または侮辱されたと考え、米国で任天堂に対して訴訟を起こした(という過去があった)ことが、話題になったことでも知られている。

(翌日注: 起こしていた訴訟を取り下げて話題になったのが2020年。以下のTweetがそのときの表明)

 自分個人としては、氏の当時の活動で損害を受けていないが、あの超能力ブームのころに多感な時期を過ごした方々は、少しは影響を受けている人もいるはずである。そしてあのころは、つのだじろう著「うしろの百太郎」などもあり、心霊がどうの、超能力がどうのということは、たいへんな話題になっていた。
 そういう意味では、氏が社会に何らかの好ましからざる影響を与えたのではと問われれば、自分にさほど認識がなくとも、それはありうると答えるべきなのだろう。

 さて、ひとまず、小説を読んでみるとしよう。

まさかの「料理通信」休刊

 実に残念なことだが…。

 楽天マガジンに年払いで参加しているのは、料理通信のためだった。他社のオンライン雑誌サービスに、料理通信がはいっていなかったからだ。だが先ほど「今号はずいぶんと力がこもっているな〜」と思ったら、最後に休刊のお知らせ。ああ、最終号だったからなのか。

 創刊号から覚えている。料理王国から独立したメンバーとともに君島佐和子編集長が新しい船出をしたのだ。毎号のように店頭で確認していたが、頻繁には購入していなかった。そして最近では楽天マガジンで読んでいた。こういう似非愛読者が、雑誌にとってよい客ではなかったということも、休刊の理由としては大きいのだろう。

 ただ、紙としてのメディアは休刊をするが、ネット上では活動をつづけていくということなので、バックナンバーの電子版は今後も引きつづき買えるのだろうと思う。そうであってもらいたい。

 ウェブメディアで料金制または有料コラムが出現するのであれば、今度こそ、これまでのお礼として会員になりたいと考えている。

 …さて、楽天マガジンは、今後は何を楽しみにしたらいいのか。年払いだったので、少し様子を見ることにしよう。
 

「一切れのパン」というルーマニアの話

 かつて教科書に載っていたのだが、記憶違いでなければ中学校で読んだような気がする。長いこと勘違いをしていてロシアの話だと思っていた。

 内容を書く前に。

 二重三重に勘違いがあると救いがないが、なぜロシアと記憶違いをしていたかというと、文中にサモワールという言葉が出てきたような気がするからだ。そしてその話の感想を教師に尋ねられたわたしの同級生(かなりの秀才)が、わたしと同じようにサモワールに何か感銘を受けたらしくそれについて語ろうとしたところ、その同級生を指名した国語の教師(中学校時代)が「まぁ、まとめとかするときには、そこはどうでもいい部分だけど〜」と、軽く流したのが残念で、よく覚えていた。

 もしかするとサモワールの出ていた話は別のものかもしれない。だとすると中学校教師とセットで覚えていたが、いつの時代に読んだかも、怪しくなる。
 ルーマニアでもサモワールを使ってお茶を飲むなら、それに越したことはないが、実際のところはわからない。

 さて。
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 ルーマニアからドイツに船で出勤していた男性が、あるとき両国の国交が断絶したのを知らずに仕事に出かけて、捕まってしまう。周囲も大勢が捕まって列車に乗せられ、すし詰め状態の劣悪環境のなか、どんどんと遠くへ運ばれそうになる。
 途中で、男性と一部の人たちは脱走を決意する。
 列車が停まっているときを見計らって、抜け出ることにしたのだ。

 そのとき、列車の中にいた老人が「お守りに」と、ハンカチにつつんだパンをくれる。食べてしまえばあっというまのものだが、いつでも食べられると思って持ち歩けば、心の支えになるはずだと、老人は説く。主人公はその言葉の通りに、何日も何日もつらい日々を送りながら、飢えと渇きに苦しみつつ、家まで帰る。

 出迎えた妻に、これがあったおかげで、帰ってこられたんだよと見せたハンカチの中味は、固くなったパンではなくて、木片だった、という話。
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 この話がよかったと、ネットで書いている人は思いのほか多かった。

 英語でも検索をかけてみようとしたが、この話は日本人に好まれるのか、英語での情報はほとんどない。英訳タイトルは A Slice of Bread なのだが、作者(Francisc Munteanu / フランチスク・ムンティアヌ)は90年代までご存命だったため著作権は切れておらず、著作権切れの本を扱うグーテンベルクプロジェクトなどとも縁がない。ならば有料でもいいから英語の文章はあるのかと検索したが、それ以上は見つけられなかった。

 ちなみに日本語訳でも、当時の教科書に載っていた時代のものは、絶版の書籍(短編集)にあったのみで、現在ではほぼ入手は不可能らしい。

 今日の夕食時にいきなりこの「一切れのパン」の話になったのだが、なぜ自分がこれについて語り出したのか、わからない。きっかけを忘れた。

 それになぜサモワールが中学時代にあれほど魅力的に思えたのか、そもそもネットで異文化の検索が簡単になった現在でも知らない人が多いであろうサモワールという言葉がほんとうに教科書の文中にあったのか(お茶のための熱いお湯の描写をわたしが勝手にサモワールと考えた?)…考えはじめたらきりがない。

 きっかけからなにから、謎な思い出話になってしまった。
 ここはひとまず「人生、希望が大事だ、心のよりどころがあることが大事だ」というふうに、まとめておくことにしよう。

夏の風物詩? 「古本を売りたい」衝動ふたたび

 自宅の本が売りたい。
 去年の夏も、これで少し気持ちがざわついた。実際にやるつもりで途中まで検討したが、いろいろあって、いったん挫折。またこの夏に本棚を見て、同じ気持ちになってきた。

 紙の本がありすぎる。売りたい。だがこういうときの「あるある」で、手元に残しておきたい本ならば世間的にも価値があり売れる可能性があるが、表紙を見ただけでどうなってもいいや的な気持ちになれる本は、オンラインのデータとして入力するのもたいへんな手間で、それをやったところで、おそらく売れない。

 また、どこの通販サイトに商品を登録するかで、気苦労が違う。大手サイトに登録すると「お客から注文があったのに、なぜさっさと出荷しないのか」とお叱りを受けることもあるそうだ(例えばAmazon)。かといって自分のサイトに古本情報を書いてみても、気楽でいいし手数料もかからない分だけ、人が見ない。いつ売れるかわからない。

 だが最近になって元気になってきた、これから伸びるであろう販売サービスが、いくつかある。たとえば thebase.in など。ほかにも何種類か耳にしている。

 新型コロナの影響で、通販に慣れていなかった方々があれこれと商品販売方法を模索した結果、サービス提供側も、客を取りこもうとがんばったらしい。そうした会社のサービスを読みにいっても説明はわかりやすいし、とりあえずちょっとやってみてもいいかなと思う人も、これなら出てきそうだ。出店作業への心理的な負担が、少なくなってきているように思う。

 さらに、手数料はもちろんとるけれども、クレジットカードや電子決済の便利さがある。商品販売の際に相手がクレジットカード使用を望んでも、出店者は手間いらずで料金を回収できるのだ。

 以前であれば、通販サイトを開始するにあたって、クレジットカード発行会社や決済の仲介会社に売り手側が申請を出し、認められてからカードを開始するスタイルが多かったように思う。カードリーダーもクレジットカード会社おすすめのものを導入することがあったため、何種類ものカードを使えるようにするには手続きと機材が面倒だったはずだ。だが最近は、電子決済方法の取次業者が増えて、個々人とではなく出店者が利用する通販サービス提供側と契約したため、出店する人は手間が緩和されたのではないだろうか、

 いつか、古本を売ってみたいとは、思っているのだが。。。どうなることやら。

 注意点としては
 ○ 自分が買って自分が要らなくなったから売るというものでないなら、古物商の免許が必要。怖そうな公安に話をしなければならない。だからわたしは自分の本だけを売る。
 ○ 古い本で多少は汚れているものもあるが、売れた場合に発送前に本を拭くための無水エタノールが、いまはほとんど入手できない。新型コロナが落ちつくころまで買えないのならば、いつになるかわからないので、本がなかなか拭けない。
 ○ この件でもたもたしていると、また来年の夏にこの記事を見て「去年もやらなかった」と騒ぐことになる。

 さて、どうなることやら、である。

 

カトリーヌ・アルレーの本を検索してみた

 日本では80年代ころを中心に、フランスの作家カトリーヌ・アルレーの本がよく読まれていた。当時の日本で盛んだったサスペンスドラマ(2時間仕立て)にも、原作としてよく使われていたと思う。

 それから数十年。

 もはや、代表作「わらの女」以外は、絶版らしい。Amazonで検索しても、古本ばかりが引っかかる。

 あれだけ読まれていたのにと、なにやらさみしい。とりわけ「わらの女」は、最後にきっかりと完全犯罪が成立してしまったのが苦しく、悲しく——主人公の絶望はどれほどのものかと、活字で衝撃を受けた数少ない作品だった。同じように衝撃を受けたのは、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」だったが、読んだのはこちらのほうがあとで、大人になってからだった。

 こちらは文庫(なんと、2000年代に改訳されているとは…!!)。

 そしてこちらは、ラストが凡庸になってしまった映画版。やはり映画界としては、あのラストをそのまま作品にはできないと思ったのか、大胆に変更。
(字幕はついていない可能性がある)

 Wikipediaによると、最近の活動は知られておらず、施設にはいっているとの情報がかつてあったらしいが、どうされているのだろうか。かつて書店の棚を埋めていた名前が、もはや消えつつあることに寂しさを感じている。

海外文学の著作権切れ

 著作権切れの本を電子データでダウンロードするのが好きだ。だがわたしの読書傾向と同じでほとんどが積ん読である。ハードディスクには大量の「大昔本」がはいっている。

 ジョージ・オーウェルの1984(英語版)は、1〜2年前に日本のAmazonのKindle本で安く販売されていた日があり、ダウンロードしたのだが、よく考えるとそろそろ没後70年なので、ネット上に原文があるのかなと、検索してみた。

 実は2年前に、著作権が作者の没後50年から70年に変更になった関係で、名作「1984」は、いったん著作権が切れた時期があった。より正確に書くならば、たとえばオーウェルの住んでいたイギリスで、イギリス英語でそのまま出版されていた場合などであれば、オーウェル作品の著作権は切れていた(別言語への翻訳がなされた場合など、そのままの状態ではないものは無関係)。そのころに、ネット上で原文が放出されたり、それに基づいた作品などを作る人がいたらしく、いまだネットに残っている場合もある。
 実際の著作権が失われるのは、2021年の元日であるが、わたしのように没日から70年でいいのだろうと勘違いをするうっかり屋もいるので、出まわってしまっているのかもしれない。正しくは没日の年末までから考えて70年後だそうだ。

 日本でも、どなたか出版されるのであれば、2021年元日以降にオーウェルの作品を翻訳発表することは可能となる。

 それにしても、実際の書籍を買う量が減ったかと思えば、現在は「データの積ん読」をしているわたしは、いつかこれらを読む日が来るのだろうか。

ゴルゴ13の連載は、まだつづいていたのか

 新型コロナの関係でスタッフの健康を考慮し、ゴルゴ13が休載になるという記事を読んだ。

 ゴルゴ13いえば、わたしが子供のころ、高倉健の主演で映画になっていた。漫画が原作だと聞いたことはあるが、映像作品として記憶していたのみだ。連載がまだ終わっていないどころか、大昔からなので作者さんもすでに他界されているのではとすら(作者さま、ご無礼のほどを…!!)平気で考えていた。

 調べてみると1968年11月から連載を開始し、それから50年以上が経過したことになる。
 正直、驚いた。

 長い漫画といえば…

 細川智栄子の「王家の紋章」(1976年開始)は、最初の数年ほどはその存在に気づかず、遅れて追いかけたが、それでもせいぜい80年代までしか追っていなかった。数年前に人から聞いた話では、その当時まだつづいていたらしい。いまはどうなっているのだろう。