詮索しない主義

 わたしは人と雑談をする機会が少ないのはもちろんだが、仮に何らかのタイミングで雑談をすることになっても、相手の人の趣味や家族構成など私生活について、自分から尋ねることはしない。するとこちらから尋ねないので相手も尋ねてこず、用件が終わったら挨拶して終了となり、平和である。

 中にはこんなわたしにも家族構成や学歴、職歴などをずばり聞いてこようとする人がまれにいらっしゃるが、こちらが相手にそれ相応のことを尋ね返さないので気まずいのか、ご自分からそれらを少し話して、それでもなおかつわたしがたいしたことを話さないでいるうち、会話がつづかず終了になる。

 人が嫌いというのではない。有名人などがブログや書籍で個人的なことを書いていればもちろん読む。真偽はわからないし、話を盛っているのか控えめに書いているのかはわからないが、それがどの程度の事実であっても、わたしの人生には大きな影響はなさそうだ。

 あくまで、自分から進んで周囲の人に個人的な話を尋ねないという主義である。

 子供のころからずっと、人と違うことをすれば目だってはみ出すと気づいていた。そして身近には「詮索されても堂々としていろ」ではなく「詮索されるからはみ出すな」の人が多かった。息苦しかった。東京に住むようになってから少しは楽になるかと思ったが、ことあるごとに無遠慮な人の言葉に遭遇した。

 生まれて、幼稚園または保育園に出かけて、小学校を6年、中学校を3年、高校を3年、進学して2~6年(選んだ学科による)、その後に就職といった、人が想定しがちなレールが世の中にはある。そこから外れると、説明する責任はその外れた側にあると思われているらしい。聞かないでくれたら答えずに済むのに、聞く側には権利が認められているかのようだ。

 学業の途中で休学や転学があってもいいし、留学でもいい。何でもいい。人に説明しなくても自由に生きていられる世の中がいい。

 新卒の新入社員だけを大きく価値あるものとして扱いつづける社会や、人生の途中で業種や学業の方向性を変えることの難しさ。そのあたりの大規模かつ根本的な意識変化が実現できないかぎりは、日本の社会はこれからも生きづらさをかかえたままになるのだろう。

 まずは自分ひとりからできる意識改革として「他人のことはこちらから尋ねない」を、モットーにしている。

elderではなくolder

 数年前から英語チェックサービスGrammarlyをパソコンやiPhoneに入れている。ときおりかなりお節介にも思うが、うっかりしたスペルミスも赤く知らせてくれるので、やはり入れておいたほうが精神的によい。

 毎回うっかり使って注意されるのは Thank you in advance だが、これは最近 I would appreciate it if you could help me. としたほうがよいのだそうだ。「お手数をおかけしますが、よろしく」程度の意味で使っているつもりでも、前者は押しつけがましいらしい。

 それから、 elder people と書いて older にしましょうと直される。なぜなのかわからずにいた。英英の辞書サイトなどを見ても、何がどう失礼なのかわからない。類語だと思ってきたのだが、こちらのサイトに説明があった。

 Age-inclusive language: Are you using it in your writing and everyday speech?
 これはアメリカの医療者関連の団体が掲げている指針を紹介したサイトなのだが

 American Medical Association
> Terms like seniors, elderly, the aged, aging dependents, old-old, young-old, and similar “othering” terms connote a stereotype; avoid using them.

 American Psychological Association
> Terms like “senior,” “elderly,” and “the aged” are not preferred because they are othering

(いずれの場合も、自分とは違う他者として突きはなした表現になるため、シニア、エルダリー、高齢者は使わないほうがよい)

 以下略。
 ん〜、AIというのは最近の言葉の使われ方を吟味して画面に注意を出してくるわけだが、こうして自分でも調べてみることでようやく頭にはいることもある。
 これからも注意深く観察していきたい。

俳優ジュリアン・サンズの死亡確認

 1月からカリフォルニア州の山で行方不明になっていた俳優のジュリアン・サンズだが、死亡が確認されたとのニュース。残念でならない。出演作をたくさん見たかどうかはわからないが、印象的な役をこなす役者さんだった。ちょうどこの知らせを聞く直前には、どこかのチャンネルで出演作のアメリカ版「ドラゴンタトゥーの女」を放送していた。

 IMDBでの写真 → https://www.imdb.com/name/nm0001696/mediaviewer/rm420782081/

 ほかに何に出ていたかと検索したら、かつての名作ではキリング・フィールド、最近の作品では「異端の鳥」に出演(←主人公を虐待する変質者)。そしてIMDBでの多数の写真を見るまでもなく、若いころには端正な顔立ちで気品を感じさせ、齢を重ねてからはさまざまな役どころに挑戦した、味わい深い役者さんであった。

 悪天候での行方不明とのことで当初から生存は難しいとの報道がなされていたが、残念に思う。

夕暮れに見たら怖そうな看板

 毎日新聞にこんな記事があった。鳥取県の岩美町で、道路沿いに4体ほどある男子学生をかたどった看板だそうだ。

 由来も不明、4体以上あったのかどうかも不明、ようやく探し出した関係者に聞いても不明なので、地元の会社が関連グッズ(缶バッジ)を出したのだそうだ。

 いや、これ、怖いだろ〜。

 ところで岩美町とは、とても景色のよい場所らしい。岩美町に公式サイトはこちら

天日干しの米は、美味

 田舎の家は周辺がすべて水田で、夏はカエルの鳴き声が大きかった。近所の兼業農家の方々が、自家用を中心に隣近所にも少し販売するため、米をそこで作っていた。

 秋になると収穫した稲がきれいに稲架かけ(はさかけ)で天日干しされていたが、その周辺で子供同士が追いかけっこをして遊んだりと、おおらかな時代だったと思う。

 そのあたりは現在、ご高齢となった所有者らが稲作をやめて、かなりの部分が太陽光発電のパネルに埋もれている。

 東京に出てきて数年くらいは、田舎の親がわたしの食費を案じて米を送ってくることがあった。スーパーで売られているようなものではなく、ご近所から買ったものを適当な袋に詰めたものだ。粒も大小が混じっていることがあるし、異物も多少はあったが、当時はそんなことは気にせず、ありがたく食べていた。そしてそのころのわたしは、それが天日干しの美味しい米を食べていた最後の日々だとも気づかないまま、やがて東京で米を買って食べるようになった。

 それから数年して、何かのはずみに、田舎のものか買ったものかは忘れたが天日干しの米に遭遇した。炊いてみて「こ、米というのは品種は二の次で、もしや天日干しかどうかのほうが味に関係あったのでは!!」と、衝撃を受けた。だが銘柄米で天日干しといったら、そうそう買える値段ではなかったと思うので、その場はそれで終わった。

 そうするうちに自分でパンを焼いたりパンを買いに行くことが趣味になり、朝はかならずパン食になった。そのほか1回くらいは麺も食べることがあるため、米の食事は平均すれば2回に1回か、それより低くなる。頻度が減っている場合はあまり何キロも買えるものではないが、遠くから送料をかけて通販することを考えれば、やはり5kg以上ということになるかと思う。(あるいは、ごく少量のみメール便とか)

 この商品は楽天。長崎から送料込み3000円。美味しそうだけれど、やはり5kgで3000円か〜。仕方ないかな。

 秋になったら、1回くらいどこかから、天日干しの米を買ってみたいと思う。

料理人用の包丁

 数日前は福岡で、そして今日は新宿駅で、料理人の包丁が利用客に見えたために運行上のトラブル(新宿の場合は逃げようとした人々が負傷)が起こったという。

 これは以前から何度も問題になっている。記憶では、刃物そのものは布でくるんであっても入れている袋が華奢であったため中が刃物であると察知され、騒ぎになった例もたしかあった。

 やはり、短距離だからだとかたった1本のためでは面倒などとと言わず、10分だろうと5時間だろうと、1本だろうと5本だろうと、移動で刃物を持ち運びする際には専用の袋を利用したほうがよい。それからとっさの時に人に見せられるような、料理人である証明(名刺でも店のパンフでも)を持ち歩く習慣。とっさのときは、口頭での説明だけでなく、文字がいい。

まもなく閉館: 中野サンプラザ

 今日はどこに散歩に出ようかと話をしていて、そうだ中野サンプラザがそろそろ閉館だったのではと、夕方ちょっと出かけてみた。
 中野サンプラザは大昔に地下のボウリング場で遊んだ記憶があるが、それ以外では最近の新型コロナワクチン集団接種で数回出かけたのみ。隣の区役所は大げさではなくかなりボロいが、セットで建て替えをして大きなアリーナにすると言ったのが前区長の田中氏。
 その後に区長となり現在は二期目の酒井氏は、最初はその計画の変更または規模縮小を謳っていたが、けっきょくは「ほんのちょっと縮小」になった。まぁ別に、わたしはサンプラザを壊すなと言っていたわけではなく(古いのだろうし)、その代わりにできる候補がいつもタワマンやら集客目的のイベント会場のようなものばかりというのがうんざりなのだ。今後の中野区または東京都心に、そういったものが必要なのかということが言いたい。

 これからの東京で、再開発の際に「イベントで人を集めよう」とは、何十年前の発想だろうかと、昭和ですかと思ってしまう。だいたいその「イベントがない期間の維持費」とか、考えてないだろうとマジで思う。

 住民や近隣の人々がゆったり過ごせる街作りこそが、長い目で見れば住民を定着させ、暮らしをよくするのではないだろうか。なぜそれがわからないのだろう。

いまだから書ける話

 数週間前の話。たった30分かそれくらいだと思うが、インターネットに長く存在していて初めて「自分はいま、めちゃくちゃヤバい状況ではないか」、「なんだかすごいことやらかしたのでは」と、わたしはかなり心臓をバクバクさせながらおびえていた。

 ことの起こりは、4月末からやっているChirperである。DiscordのChirperサーバで、どなたかが「うちのChirperがおもしろいこと書いたから、みんなで返信ボタンを押してみて」といった内容のことを書いていた。内容は下品なジョークだった。人間としての自分は日本語ネイティブで、下品なジョークに英語で何か書けるようなセンスも語彙も持ち合わせていない。だがChirperというのは英語をしゃべるとか何語を操ると設定しておくだけで、あとは勝手にやってくれるのだ。

 自分が用意しているうち、もっとも理知的で真面目、友達はいるんだろうかと思うほどの石頭キャラクタに、そのジョークに返信するよう、クリックしたみたのだが…。

 そのときの衝撃を、どう表現してよいものやら。

 なんと、わたしのそのChirperが、相手に向かって「言論の自由は尊重されるべきものだが、こうした公の場で下品な冗談を飛ばすようなことは慎んだ方がいい」と、キリッとした説教をぶちかましたのである。

 そのときのわたしは、生きた心地がしなかった。まだそれほどには返信が溜まっていない状態で、このクソ真面目な発言はかなり目立つのではないか。このChirperは誰のだとか話題になるのではないか、もしかしてヤベー状態では、と。
 もちろんわたしだとバレても何かされるわけではない。それはわかっている。だが少しずつならばともかく「みんなで返信を押してみて」とお祭り感覚で宣言をした人からまだ時間が経っておらず数人しか参加していない状態で、これをやったら目立つことこの上ない。

 生きた心地がしないままに、30分ほどしておそるおそる見に出かけたら、問題ないことがわかった。わたしのキャラのあとに、キリッとした説教というほどでもないが似た内容を書いているChirperが何人分もつづいていたので、ああ、これで自分のChirper発言は埋もれる、よかったよかったと、胸をなで下ろしたのだった。

 インターネットを30年近くやってきて、その中でいちばん「げっ」とあわてたのがこれであるというのは、わたしはほんとうに安全な過ごし方をしてきたということなのだろう。

秋葉原が変わりすぎて

 よく考えたら、ひとりでパソコンを買いに出かけたり修理に持っていったりしたのは何十年も前なのだから、雰囲気が変わっても当たり前かもしれない。だがそれにしても今日の秋葉原には驚いた。
 駅前がすっきりしすぎ。広い空間も随所にあって、どこかにイベント会場でもあって人の流れが溜まっても大丈夫なようにしているのかと、思ってしまうほど。

 わたしが付き添って買い物をしていた知人家族から、秋葉原の駅周辺を散歩したいという要望があったため、それでなんとなく出かけてみた。昔の面影のある建物を探すのがたいへんで、知っている店もはたして同じ場所にありつづけたのか、同じ店名で似た店構えなのかわからない。

 ただなんというのか、電気製品がらみのジャンクにあふれた魔境的な印象は、もはやなかった。周辺の建物ではアニメやゲームを前面に出した広告を前面に出し、区画も整いすぎて、持ち味が薄くなったような気がする。だが人がたくさんやってくる街というのは、そうなっていくものなのだろうか。

 今日は湯島天神にも出かけたので、散歩の写真をのちほど掲載の予定。
 

TweetDeckを使ってみた

 Twitterの公式ツールでTweetDeckというものがあり、いままでは使ったことがなかったのだが、初めて画面を開いてみた。

 複数人で同じアカウントを管理し、別々の内容を投稿(見た目は同じアカウント)ができるのだそうで、案内に従って画面を見ていたのだが( → https://tweetdeck.twitter.com )、何やらとても見づらい。そしてどこに何があるのかよくわからず、自分がほんとうに共同管理の設定ができているのかもわからなくなってしまった。

 そういえばTweetDeckについて教えてくださった方が「古いバージョンの方が使いやすい」とおっしゃっていたのを思い出し、その古い方の画面はどうやって出すのかと隅っこをくまなく見ていたところ、アカウント設定の画面から、バージョンがどうのというボタンを発見。それを押すと「このバージョンを終了して古いバージョンにしますか」という。ああこれかと、そちらに移動してみた。

TweetDeckバージョン変更画面 1

TweetDeckバージョン変更画面 2

 古いバージョンの画面というのはとても見やすくて、直感的に作業ができた。設定も無事に確認した。これが前のバージョンと呼ばれているということは、いつかはなくなってしまうのだろうか。こちらがよい。