顧客を利用したマーケティングのもろさ

 最近、アンバサダー制度というものを採用している企業が増えてきた。とくに、わたしが普段からネットで見ている焼き菓子関連、コーヒー関連の企業で多いように感じている。

 すべての社が同じ方針かどうかはわからないが、商品を差し上げるのでネットで写真を載せたり口コミをお願いします、それ(公開)が確認できたら、次回からも優先的に案内をしますという例が、いくつか見受けられた。厳選な抽選で選ぶというよりは、同じ人でも「載せてくれる人」を優先にしていることが、文脈からすら簡単に読みとれるのである。

 これは、ほんとうにその会社の商品が好きで、普段から味を知っていて応募する人にとっては、まったく生活に変化がないことかもしれない——つまり、ネットに載せるかどうかはともかく食べる可能性はもともとあったので、それが無料になるならば、対価として写真を載せることは苦ではない、ということだ。

 だがその会社の商品が初めてで、送ってもらって食べてみたものがさして感動を生まなかった場合は、どうだろう。

 その人のうち何割かは、画像を載せないだろう。載せないからといってカネを払えと言われるわけではないので、それで終わりである。中には「もらってしまったのだから載せないと問題かも」と、差し障りのないコメントで載せる人もいるかもしれない。だがそこでストップする。輪は広がらない。

 この点から考えても、わたしが思うに、普段からファンの人と、その周辺でまだ食べたことがなかった人が知人の写真を見るしか、マーケティングとしてはあまり広がらないのではないだろうか…? いや、はたしてこれはマーケティングと呼べるのだろうか。
 これまで知らなかった人にとっては、ネットで誰かが大量に写真を載せまくることで、その企業の商品は「チャンスがあればもらえる安いブランド、気軽なブランドである」という方向に意識が流れ、店で対価を払ってまで味を確かめるとは考えなくなる…ということは、ないだろうか。

 杞憂であることを祈りたいが、大好きな商品を販売している企業で最近この傾向が著しく、辟易してしまった。

見ている/聞いているものは、同じではない

 エターナルズという映画が、Disney+の配信ならば無料で、U-Nextならばポイントを使用で見られるとわかり、それならばDisney+で見てみようかという話になったのが、昨日のこと。

 2時間半くらいある作品のため、半分を昼間に、残りを夜に見た。

 前評判は高かったようだが、見てみると「あっそ…」である。前評判がなければ普通に見たかもしれないが、正直ちょっと「アンジェリーナ・ジョリーが助演で出るなどとと豪華なキャスティングで、これか〜」という思いが。

 さて、今回の話の本筋は、そこではない。わたしは予告編を見ているときも、2回に分けて本編を見たときも、聞いたことはあるがタイトルを知らない女性ヴォーカルの曲が気になっていた。

 わたしは音楽に疎いので、聞いたことがあるといっても何年くらい前なのかもわからず、見終わってから「あの曲、何」とタイトルを尋ねると、横で見ていた家族から「なんか、曲がかかっていたのか」と問い返された。わたしは驚き、予告編を見るたびにがんがんかかっていたこと、本編にもたしか何回か流れたことを告げ、女性の声だったとも言ったが、覚えていないという。

 仕方ないので、ネットで検索してこれを見つけた。古そうな感じである。

 さっそくこれを聞かせようとしたところ、冒頭の段階ですぐ「あ、The End of the Worldだ。これ、作品中に流れてた?」と言われた。——曲を知っていても、もともと知っている曲を映画の内容に結びつけることなく、耳がスルーしたということなのだろう。この映画については見ながらも「つかみが悪い、つまらない」という評価だったので、作品世界に集中することはなかったのかもしれない。

 見ているもの、聞こえているものは、同じ場所にいる人間でもけっこう違う。いつも考えることだが、昨日はこれを実感したのだった。

普通郵便の土曜日配達がなくなってみて

 以前は木曜日に投函した郵便は、よほどの遠隔地でもないかぎり、早ければ金曜、遅くとも土曜に配達されていた。2021年の秋から、配達そのものだけでなく仕分け業務も時間が繰り上がったため、木曜日の遅くに投函されたものは、月曜以降に配達される可能性が高くなった。

 別料金のものや荷物は土曜も配達されるし、普通郵便でそれほど急ぐものは想定していなかったので、さほど不便を感じていなかったが、今回は違った。区が24日に18歳以上の区民に対してワクチン接種券を発送開始するらしいと聞いていて、まだ到着しておらず、「ああ、なるほど到着は月曜以降か」と、妙に実感してしまったのだ。

 届いてからその番号を入力しないと予約日の空きを確認できないため、スケジュールが立てられない。前回の例から1日多く予想しておくなら副反応で3日くらいは動けない可能性もあり、早く予定が立てたいのだが、そもそも予約が取れるのかどうかもわからない。前回は申し込み開始日の朝にあまりの混雑に画面リロードをやめてしまい、数時間放置して出遅れてしまった。

 普通郵便の土曜日配達がないというのは、なんとも不便である。

 人手不足はもっともだし、労働時間に制限が必要であることはもちろんだが、郵便局はかつて半官半民で有利な立場でありながら、ヤマト運輸など民間宅配の会社より安い料金に設定し、利用者のシェア拡大をはかった過去がある。なぜこのような書き方をするかというと、郵便という「郵便局にしかできない」仕事を重視するのではなく、民間でもできる仕事を拡大した上で手が回らなくなったのである。その上で郵便を縮小という、なんとも消費者としては「ありがたくない」ことをしているとしか思えないのだ。

 もともと宅配会社よりも安い設定で「ゆうパック」が展開できていたのにも、郵便を扱える有利な立場が関係していた。一時期、ゆうパックの車は(郵便の車と見分けが付かないからか?)なぜか路駐ができていて、民間業者はドライバーのほかに助手を乗せて路駐ではないと申し開きをするか、有料駐車場を使わないと、違法な駐車と見なされる危険性があったと聞いている。コストはそれだけかさむ。

 そうまでして奪ったシェア。
 手が回らなくなったのならば、郵便重視にもどってほしいのが消費者としての願いだ。
 ただ、荷物と普通郵便とどちらが利益になるのかといえば、前者のほうがまだよいという判断で、郵便の比率を減らすほうが、経営では合理的なのかもしれない。

ウクライナを応援したくて、検索してみた

 ウクライナから輸入の市販クッキーや、袋入りチョコレートがあるらしい。すでに輸入されているものはこれからも食べられるだろうが、今後の状況次第では現地の操業や流通も思うようにいかず、元気を応援することにはならないのかもしれない。だが人の記憶にウクライナを強くとどめておくためにも、見かけたら購入またはネットで記事にしたい。

 ロシア料理の本は何冊も持っているが、文化圏が近いため、ウクライナや周辺国の食べ物もひとつの本に掲載されている場合が多い。厳密な区別は難しいのだろう。
 ネット検索によると、実はボルシチもウクライナの家庭料理だという。もともと地域により種類がたくさんあるそうで、ロシアでの食べ方では牛肉が主流だがウクライナでは豚肉と書いている人もいた。

 ウクライナを応援したい。今回のロシアはひどすぎる。そして、周辺国へ軍の人員を配備し緊張を高めた米国が、当たり前のことではあるが、介入をしない(これまでならば何らかの理由をつけて介入していた可能性もあるが、さすがにそういう時代ではないのだろう)。緊張を高めておいて、これはいったい何かと言いたい。ヨーロッパ周辺国の首脳により強く働きかけ策を練ってもらうことのほうが、優先されるべきだった。

 現在のウクライナを守るのは国際的な世論でしかないが、世論でひるむようなロシアであるはずもなく、今後はもう、どうなるのか先が見えにくい。
 まさかプーチンが国内で大統領職から引きずり下ろされるようなこともないだろう。ロシアが内側からどうにかならないのであれば、外側の被害はそれだけ大きくなる。

ついに、ロシアがウクライナ侵攻

 今日は朝から用事で出かけ、帰宅後に昼食を食べてほっとひと息ついて…と思ったらロシアがウクライナに侵攻とのニュース。背筋が凍った。最初の2日くらいで重要な場所を攻めてしまえばウクライナは防衛できなくなり、政権を事実上ロシアにとられることになるとの見方もある。

 なぜこんなことに、なってしまったのか。

 そしてなぜ世界は、人間は、学ばないのか。戦争で得られるものはなにもない。人が死に、増えるのは恨みと憎しみだ。その苦しみの種がまた数十年後に芽吹いて、あらたな争いになる。

 平和は得られるまでに長い月日を要し、失われるときは一瞬である。

 愚かな決断は、どこかで断ち切らなければならない。

夜の喫茶店でoxygenの発音を教えた話

 30年くらい前になるが、間接的な知り合いに英単語をいくつか教えてくれと頼まれたことがある。用途は、とてもシンプルな単語をいくつか、名刺の隅にメッセージとして刷りたいと上司が言っている、というものだった。

 世の中に不可欠で、シンプルな単語をというご希望だったため、教えた単語のうちひとつが、oxygen(酸素)だった。

 しばらくして、上司がお礼を言いたいとのことで珈琲でもいかがかと誘われた。その間接的な知人ですら数回しか会ったことがないのに、その上司といったらさらに話が合わないだろうからと「いくつか単語を教えただけですから、いいです」と固辞。ところがそのことで上司という人が意地にでもなってしまったのか、どうしてもという話に。
 けっきょく、ちょっとした手土産まで持参で、当時わたしが勤めていた会社近くまでふたりがやってくることになった。

 そこで、わたしの知っている店が混んでいたので、まったく知らないカフェバーのようなところに連れていったわけだが…。

 話はいつのまにか「単語を発音してください」になってしまった。oxygen(酸素)がとくに難しかったらしく「もう一回お願いします」とせがまれ、静かなカフェバーで、oxygenを複数回。自分はいったい何をしているのだろうと、不思議な気分になった。

 その日に何か飲食した料金のほか、持参の手土産をもらった。それ以降はふたりにご縁がなかったが、あまりない体験だったと、いまにして思う。

 oxygenは、ほかのたいていの英単語がそうであるように、カタカナではうまく表現できない。オクシジェンでもアクシジェンでもなく、オよりもややアに近い音につづいてクスィジェンのような雰囲気。この冒頭の母音がオなのかアなのかがわからず、発音を何度も確認したかったのだろう。

 それにしても、人間の記憶の引き出しとは、いつどんなときに開くものなのかわからない。

 夜にパソコンの画面を見ていたら急にこのことを思い出した。いったい何が引き金だったのだろうか。不思議なこともあるものだ。

既定路線で安定のB級「悪魔のいけにえ – レザーフェイス・リターンズ – 」

 Netflixにあったので、何気なくクリックしてみた。たちまちのうちに「これは安定している、鉄板の既定路線」と評価。むろん、とてつもなくおもしろいとか、わくわくするという意味ではない。きちんとパーツがあるべき場所におさまっていて、意外性もなく、自分の直感で「次はこうなる」という予想の確認のため見てみたということだ。

 

 主演の姉妹のうち妹の設定が、学校の銃撃事件の生き残りで心に傷をかかえているというもの。周囲でばたばたと友人らが倒れていくなかで、自分は何もできなかったという無力感に満たされている。

 70年代のオリジナル作品で生き残った女性がいまもレザーフェイスに復讐を誓っており、その役名で登場するので、世界は同じものが継続している。演じている女優は別だが、「へぇ、あれからもう少しで50年か」と思うと同時に、「じゃあレザーフェイスは何歳だよ」というツッコミもしたくなる。

 この映画にかぎらず、最近つくづく、出演する役者の女性比率が高くなったと思う。頼もしいことだ。

 メインで戦うのが姉妹、後半で登場するのが初回の生き残り女性だが、もうひとり忘れてならないのが、地元にずっと残っていて冒頭で亡くなる老婦人(演じるのはアリス・クリーグ)だ。その存在がレザーフェイスの復活をおさえており、いわば「生ける魔除け」のような立場だった。
 世話になっていた魔除け女性が無念の死を遂げたため、レザーフェイスは遠慮なく活動を再開する…という物語。

 血はたくさん出てくるので、苦手な方はとことん苦手だろうけれども、わたしとしては70年代のこの手の映画に多かった不潔なシーンがほとんどないのが救いだ(←血ドバよりも、不衛生な屋外トイレに蠅がいるほうがよほど耐えられない人間のコメント)。

63年前の取り違え事件

 都立の産院で63年前に取り違え事件があり、ほんとうの血縁者を探したい男性が、都に訴訟を起こしているという。これまでの裁判で取り違えは認定されたが、都は親を探そうとしない。そこで男性から再提訴がなされたのだそうだ。

 2022.02.21 東京新聞 赤ちゃんで取り違えられ「真の家族に会いたい」 被告の東京都、両親の調査は「根拠の法律ない」

 男性は育てられた家庭内で血液型の組み合わせほかさまざまな疑問をいだきつつ日々を過ごし、2004年にDNA鑑定で親子関係がないことがはっきりしたのち、ほんとうの家族を探しつづけてきた。だが個人の捜索手段には限界があり、個人情報保護の壁を前にして、適切な権限もない。ところが都は協力的でないだけでなく、他社の関連記事も含めて読んだかぎりでは、原告の男性に対し「門前払い」も同然の扱いをしている。

 都の産院で起こった重大な不手際だ。
 本人にも、育ての両親にも落ち度はない。そして原告の母親は年老いていて時間がない。自分の生んだ子供と会えるなら、遠くから見るだけでもいいからと、再会を願っている。

 都側の言い分は
> 「調査には強制的な個人情報の開示やDNA鑑定の実施が必要で、根拠となる法律がない」
 …だそうだが、ふざけるな、である。

 今回の原告になっている男性が他社サイトのインタビューで話していた内容から推測するに(*1 参考リンク先:文春記事)、都はこの件で、墨田区への問い合わせすらしていない可能性がある。つまり、区にすら協力を求めていないということは、関係あるかもしれない人々に問い合わせや協力のお願いすら着手していない。そんな努力すらしていないのに「根拠となる法律がない」と言っているのである。

 ふざけるな。
 自分の身にこんなことが起こったらどれだけ苦しいかと考える人が都の関連職員に数名だけでもいたら、とてもではないが、こんなふざけたことは言えないはずだ。

今回の五輪も見なかったが

 2021年夏の東京オリンピックは見ないことにかなりの労力を要したが(ネットでも動画が流れるため、よけるのがたいへんだった)、今回の北京はさほど苦もなく、見ずに済ませられた。ただしロシアの15歳スケート選手をどのような目に遭わせたかについては、ネットのニュースなどで最低限のことを把握していたつもりだ。

 それにしても、閉会式になった途端に、開催前に懸念されていた事項(人権問題等)がうやむやなままで終わったなどと書きはじめるメディアには、拍子抜けしてしまう。最中にそれを書く度胸がなかったのだろうし、最中に書けなかったのなら最後まで書くなと言うつもりもないが、それにしても、ちょっと恥ずかしくないのだろうか。

 ここまで露骨に商業主義を押し通すオリンピックというものについて、見直すべきではないかと思う。見苦しすぎる。

地元の再発見

 この2年ほど、それまでの楽しみだった都心のデパ地下めぐりから遠ざかり、たまに見るとしても中野マルイの食品売り場くらい。荻窪の駅ビル周辺にも行くことがあるが、新宿も、東京駅も、まったく行かなくなってしまった。

 もともと少なかった外食もさらに減り、おそらく数えられる程度。

 そんななか、近所の商店街などで「あ、この店は、ずっと知っていたけれど買ったことなかった。意外にいいな」とテイクアウトしたり、数日前には、どうも歴史が長いらしいという程度の認識だった近所の店で、昼食をとるという機会も。

 近すぎて見ていなかっただけで、近所には、いろいろある。

 これからも、状況は長くつづくのだろう。
 人が多いところには、なかなか行けない。

 しばらくは近所を歩いて、遠い日の都心を夢見るとしよう。