“Я не знаю” で、異文化体験?

 クイズ形式の語学学習サービスDuolingoで、1年以上学んでいる。学ぶ言語を増やしているので現在は11カ国語になっているが、いちばん最初に開始したのはウクライナ語だった。追いかけるようにロシア語もはじめて、ほかが増えていった。

 ウクライナ語とロシア語は文字も似ているし、単語ひとつひとつのことを描くならばスペルか発音が少し違うくらいのものがたくさんある。そのため短い文章ならば、どちらの言語かはともかくとして、なんとなくの意味がわかることがある。だがこれはいつか、自分が両方の言語に慣れてきたらすぐ区別が付くようになるはずだと、ずっと思っていた。

 だがつい昨日のことだが、Я не знаю. が目の前に現れた。
 これはカタカナで表現するならば、ウクライナ語で「ヤネズナイョ」のような発音であり、意味は「わかりません」である。これは習いはじめてから比較的早い時期に「おぉ、これは便利そうだ」と覚えたのだ。するとつまり自分がいま目の前で解いている問題はウクライナ語だな…と思ったものの、すぐそうではないと気づいた。

 ウクライナ語はもう本編を修了してしまったので、現在わたしができるのは、おさらい問題しかないのである。するとこれはロシア語ということになるが、あれ、スペルと発音まで同じЯ не знаю.だったか!? 自分は何か勘違いしているのだろうかと検索。
 ところが両者は、スペルはまったく同じで発音が少し違うのみであった。ロシア語はヤネではなくヤニのように聞こえるし、語尾もやや違う。だが見た目は同じで、微妙な発音の違いは日本国内の方言の差違くらいである。
 驚いた…だが、それで終わりではなかった。なんと、検索をつづけていたところ( → Wiktionary: Я не знаю.)、ベラルーシ語まで同じスペルで、発音が似ていた。

 1年やっていてやっとこんな基本的なことに気づいたのかと笑われてしまうかもしれないが、わたしにとってはかなりの異文化体験である。

 日本語では、短い表現がそっくり他言語と同じということは、まずない。単語の音または文字としては類似が存在するが、文字と音、そして使い方(表現)がほぼ同じという事例は、あるのだろうか。
 たとえば日本語で「あけましておめでとう」と言う人は、中国語の文字として「新年好」を理解できるが、中国語圏の人は日本語のひらがなを得意としないだろうし、逆はなかなかないだろう。音として似ている単語はあるが、それも単語止まりだ。文章表現ではすぐに思いつかない。

 好き、読む、書く、など基本的な動詞は、ウクライナ語とロシア語で音が似ている。スペルは微妙に違う。ポーランド語とチェコ語の類似性もこのふたつと同じくらい近いが、スラブ語圏ということでひっくるめて全体が似ている。わからない単語があっても「スペルを見ると音ではこう読むのだろうから、意味はこれかな」と、当てられる場合もある。

 島国であり、一時期は鎖国をしていた日本。外国と交流の少ない年月により、日本と日本語は、スラブ語圏に見るような幅広い混じり合いがなく過ごしてきた。中国語と漢字には大きく影響を受けてきたのはたしかだろうが、文字を見てなんとなくわかっても音声の会話としては通訳なしに成り立たない。

 けっこう日本語は貴重な存在なのではないかと、あらためて感じている。

山羊乳の臭みが、以前は苦手だった

 先ほどシェーブル(山羊乳のチーズ)を食べていて「そういえば昔はこの味に驚いたものだったな」と思い出した。
 最初は固体でもびくびく食べたので、液体で飲む山羊乳などとんでもなかった。初めて旅行先のフランスで紙パックの山羊乳を買ったとき、「こ、こんな小さなパックに、ヤギたっぷりはいってる」と、驚愕したものだ。ところがいまでは日本でも希少な山羊ミルクの入手機会があると、予算の許す限りは買って飲んでいる。

 チーズや乳製品では、この数十年で日本人向けに匂いが少ないものの流通が増えてきたように思う。日本製のカマンベールも見かける。だがチーズ類はおおむね、輸入品の場合は臭みが強い。ときおりいまも匂いの強さに驚くほどだから、慣れていない人にはつらいかもしれない。

 フランスは街の小さな商店(日本で言うならコンビニより小さい食品店)でも、冷蔵棚に山羊乳があった。酪農の国ならではだろうが、日本では牛乳以外はあまりお目にかからない。山羊乳もたまには飲んでみたいものだが…。

 一時期は東京でも山羊の乳製品を扱う店があり、いまはなき新宿三越で買うことができた。だが三越より先にその店がなくなってしまった。現在は通販などに頼るか旅行に出かける機会でもないと、なかなか難しそうだ。

絵画展「ウクライナからの贈り物」

 東中野に散歩に出た。正確には西武新宿線の「中井」から南下して東西線「落合」、そしてJRの東中野駅まで歩いたのだが、これがもうほんとうに素晴らしいコース。小さな商店街から開始して大通りに出る。するとほどなく都会の景色に。

 目的地のひとつは、ポレポレ坐ビル7階の「ありかHole」で開催の「ウクライナからの贈り物」という絵画展。入場無料で、4月30日まで。
 ウクライナの子供たちが描いた絵が展示されている。入場無料。

絵画展「ウクライナからの贈り物」

 ブログに載せようと思いつく前に折ってしまったので、やや画像が乱れているがご容赦のほどを。

 ほのぼのとした子供らしい絵、漫画のキャラクタのような描き方のものや、玄人はだしのものまで、数十点を展示していた。募金をすることもできたので、小銭で申し訳ないが多少の協力をさせていただいた。

 ウクライナ語を学んで1年以上になるが、子供たちが絵に添えたサインや短い文章があまり読めなかった。名前、年齢、地名くらいはなんとかなったのだが、まだまだ勉強不足である。

 会場はとても静かで、時間に押されることなくじっくり見ることができた。

 このほか、見ただけで購入していないが、山手通りを渡って西側の小さな商店街にある「ジャルダンゴロワ」(キッシュなどの洋惣菜やタルトなどの洋画史が有名)を見たり、駅ビルにある成城石井で買い物をして、高円寺にはJRで帰ってきた。そろそろゴールデンウィークということで、ゆうちょのATMで人がたくさん並んでいたが、自宅に近いゆうちょはほとんど誰もいなかったため、すぐに利用できてラッキー。

 歩数は約8000歩だった。

そうだ、円安があった

 保険証は原則廃止でマイナンバーカードを保険証として使う方針が以前から噂されてきたが、ついに今日は法案として衆院を通過したのだそうだ。はぁ…。便利だったものを不可解な理由で廃止することは、アメリカに堂々と誇れる数少ないもののひとつである「国民皆保険」を、土台から揺るがしかねない。

 外遊のたびにカネをばらまく約束をして国内にはほぼ皆無、数十年前から手を打っておけば緩和されていた可能性のある少子化も加速度を増し、あげくに増税すら口にしはじめた。

 一度でも、誰かひとりにでも自民党に票を入れたことがある人は、この10年くらいの自民党についてどうお考えなのか、ぜひお聞かせいただきたい。

 以前から、何かあるたびに「世の中のしがらみがぜんぶ消えたら(親や周囲がすべて他界したら)、貯金を持って外国に住むのもいいかな」と、漠然と考えてきた。もう、ひとつひとつの積み重ねが、ほんとうに息苦しい。

 だが、最近はその考えも持てなくなってきた。
 いままで忘れていたのだ。いまの日本社会を覆う驚異の円安を。

 早くから外国の企業と取引があったなどの人々を除き、普通の人は、たいてい預金は日本円なのである。仮に自主的に溜めた外貨預金があったにせよ、円安になる前から買っておいた外貨など、一般人であれば数十万円〜多くて数百万分だろう。それを移住先で使うといってもすぐなくなる。あとは日本円(ちょー安い)を切り崩すのみだ。目減りも早いだろう。

 漠然と考えていた「外国にでも逃げるか」すら、もう可能ではなくなった。

 このままでは、息苦しいだけでなく、ほんとうに先が心配である。

日本人は「左手にスマホ、右手で操作」が他国より多い

 昨日たまたま見ていたこちらの記事( → 2023.01.27 INTAGE「知るギャラリー」 日本人のスマホの持ち方は独特? -国際比較調査でみるスマホ操作の国別傾向-)は、日本人の40〜50代は左手にスマホ、右手の人差し指で操作をすることが多いが、他国を含めて考えると、反対もしくは同じ手の「親指」で操作する人が多いという内容だった。

 …親指!?
 ほほぅ…。考えたこともなかった。同じ手であれば多少は想像できるが、反対の手で持つ場合は人差し指のほうがキータッチが的確という印象がある。なぜ親指なのか。

 リンク先の記事はとても長いもので、丁寧に書かれている。また、なぜ日本人の40〜50代に「左手にスマホ、右手で操作」が多いかという話では、推測として、企業の電話番をしながら左手で受話器を取り右手でメモを取る習慣があったためではないかとのこと。

 ああ、それはなんとなく納得してしまう。当たっているかもしれない。

 最近の企業では電話を取りたがらない人が増えていると聞いたが、使い方がわからない人がいるのも一因だそうだ。そういう企業では、個々人に(昔の内線のような感覚で)携帯電話を渡して仕事をさせているのだろうか。

 

諭吉さんたちの話

 日付や曜日の感覚がない暮らしが長すぎて、先日から「ゆうちょ銀は5月の連休でATMを休む」やら、「ネットのショップでどこそこは出荷を休む日があるのでご注意」やら、ずいぶんみなさん早めにメール連絡をくれるのだなと、勘違いしていた。だがよく考えたらこの週末から連休なのか。おぉ…まったくその可能性が頭から抜けていた。

 キャッシュレス決済でほとんどの買い物を済ませているので、急に大きめの額が財布になくて困ることはまずないだろうが、ATMが混んでいない時間帯を見計らって諭吉さんをひとりお迎えしておくのもよいかもしれない。そういえば諭吉さんは来年くらいには新規の発行がなくなるのだったか。

 記憶にある紙幣でいちばん「これぞカネ」と思えたのは聖徳太子だった。サイズが違うだけで5千円も1万円も聖徳太子だった。何回か財布を通過したがすぐ見なくなったのは2千円札。まだ時代で考えると新しいというのに、自分も含めて周囲はまるでそれが財布に来たらヤバいとばかりに、トランプのババ抜きごとくすぐさま使っていたような気がする。

 苦労させられたのは伊藤博文の千円札。10年以上前に義父母がどこかに貯めていたらしきものがわたしまで回ってきたが、ATMに入れることもできず(認識されない)、店で使おうにもおそらくそれを見たことがない店員がほとんどで揉めてしまう危険性があり、いったいどうしたらいいのかと、ずっと財布の中に入れたままにしていた。
 さすがにそれも意味がないだろうと、銀行でたまたまATMの近くにいた係員さんに相談すると「窓口で入金してください」とのことだったので、伝票を手で書いて入金した。

 そういえば、新5千円札は津田梅子が予定されている。選ばれたときに図柄がオリジナルから左右反転になっていて「それって失礼ではないのか」、「いただいた写真に対して道義的に問題ないのか」という話もちらほら出たものだったが、そのまま通過したらしい。(参考: 2019年の「ねとらぼ調査隊」→ 5000円札「津田梅子」の写真、反転して使用? ネットの反応は9割が否定的

 キャッシュレスが盛んになる今後を考えると、以前よりも1回の紙幣が使用される期間が長くなることも考えられる。そんな状況で、ずっと左前の服装のまま世の中の人々に記憶されるというのは、津田梅子さんゆかりの方々にしてみればとkに、ご無念かと思われる。

「ノストラダムスの大予言」という本があった

 子供のころ(おそらく70年代)、周囲の同年代らは「1999年に、地球はなくなるんだって」と話していた。遠い先のように感じたが、「とりあえずそのころまでの将来を思い描いておけばいいのか、そのあとは考えなくていいのか、楽だな」と考えたのを覚えている。わたしはとにかく先の先の先まで考えてしまう性格で、将来というものに期限があるのであれば、考えることをやめる日が来るということであり、前もって休暇が約束されているようなものだと考えたのだ。

 ところが99年には何も起こらず、その後も日々はつづいた。

 東日本大震災が起こったり、最近のコロナ禍のこともあるが、それよりも地下鉄サリンと阪神淡路大震災が同じ年だったというのが思い出すだに衝撃で「よくあんなことがふたつあった年を乗り切ったな日本人」という思いでいっぱいである。

 いま、政治も社会もどんどんとおかしくなってきているが、不思議なことに、先を考えることにうんざりしていたはずの自分が、先を見届けようという気持ちが強くなってきた。以前は「この先この国はどうなるのか」という不安があって、政治が悪いのに投票に行かない人たちに腹が立っていた。社会について、怒ったり嘆いたりしてばかりだった。

 たとえば安保法成立に力を貸した(当時参議院議員の)松田光太氏が許せずに「タリーズにはもう行かない」と心に決め(←松田氏は日本にタリーズを入れた創業者であり、経営からは離れていたもののわたしにとって氏はタリーズの人だった)、その後は事情で1回だけ利用したのみである。ほかの政治家に対しても、怒りとか、許せないとか、そういう思いをいだくことが多かった。

 だが、少しずつ人と社会は変わる。

 昨日の山口県での衆院補選は、結果を聞いた瞬間に耳を疑ったものの、ネットで数字を見たところでは、勝負はかなり競っていたらしい。山口県の有権者の方々がまじめに考えてくれて、それでもああなったのだ。けっして山口県のみなさんが適当だったというのではない(もちろん投票率の低さは残念ではあるが)。今回の補選が、投票というものへの意識が少しずつ高まるきっかけになっていくと信じたい。
 統一地方選挙でも、東京のいくつかの区では女性区長が誕生した。そして少なくとも中野、杉並など界隈の区では投票率が1〜4%上がった。1票以内の僅差で明暗が分かれた議員も複数出た。そんな話題のひとつひとつが積み重なっていくことで、投票という行為の重みが少しずつ有権者の心に浸透していくのではないかと、そんなことを考えている。

Netflix: Hunger を見てみた

 評判らしいのだが、たまたまネットで予告動画を見た関係で気になっていたタイの映画 Hunger(邦題「ハンガー」)をNetflixで見てみた。

 偶然に飛びこんだ世界で頭角を現す若い女性料理人と、一度はその師となった高名な男性料理人との確執と料理対決を軸に、味はわからないが高名な料理人を雇う成金の醜悪さ、カネがない生活と富裕層などの社会的な話をからめつつ、最初から最後まで「よくある話」の路線を突っ走った作品である。

 見はじめて数分後「これって、こういう話だろうね」、「そうだろうね」と話した内容がまったくブレずにその通りに終わった。意外性はゼロだ。そして出てくる料理も、料理番組として見ると不味そうなものが多かった上に、衛生面でも「厨房でこりゃないだろ」という、見ていてつらい場面がちらほら。

 見て損をしたとまでは言わないし、以下に書くように主演女優の成長が見られてよかったのだが、正直「なぜこれが世界的にNetflixのランキングトップになったのかが不明」である。食べ物対決というのは、話題になりやすいのだろうか。

 さて、主演の若手女優チュティモン・ジョンジャルーンスックジン。

 見ている途中で気づいたのだが、2017年に、秀才ふたりと金持ち同級生らが組んで国際的規模でカンニングをおこなう「バッドジーニアス」で主演デビューした人だった。そのときに高校生役だったのだから、実際もかなり若いのだろう。
 その作品でも、やってきたことは悪くても最終的には人として正しい道を選ぼうとする役だったと記憶している。今回も師のもとを離れるのは義憤に駆られたからだった。こういう役の似合う凜としたイメージの女優さんである。

 個人的には若いころの中野良子に似ていると考えており、今回もそれがきっかけで「数年前に若いころの中野良子みたいだと感じた女の子がいたが、これは同一人物か」と気づいた。また別の作品で出会えるのを楽しみにしている。

借地に関する疑問

 1年以上になると思うが、暇があれば不動産のサイトを見て価格と間取りをチェックしている。宝くじに当たらないので実際の引っ越しはできないが、気分だけでも新生活を夢見ている。

 先日のことだが、場所がよいのにそこそこ安い新築の家があった。東京23区でその間取り、そして駅からの距離を考えればもう500万〜700万くらいは高く価格設定されそうなものだろうと疑問に思っていた。よく歩く場所に近いので実際の建物も散歩がてら見にいってみたが、けっこうよい。宝くじが当たったらここだなと思いながらまた不動産サイトを見ていると、のちほどそこに借地権の家という注釈が追加された。

 借地権。
 そうなると、だんぜん話は違ってくる。仮に月に2万5千円を払うとして、木造でもだいたい30年近く使えるものであるから1年で30万円なら30年で900万円。自分にあるのは地上権だけなので事情により早く家を売ることになる際には、家屋の価値でしか判断されない。家屋はすぐ値下がりするし、値下がりを避けるためにこまめにメンテやリフォームをしたら足が出る。
 さらにはその家屋の命が尽きるころ(つまり数十年後)まで住んだとして、買い手が付かないほど古いボロ家を売りに出すのか、更地にして返せと大家に言われて金がなくて困ることになるのか、そのあたりを考えるとややこしそうである(←詳細は借りるときの契約に記載されているはずとは思うが、関係者のほとんどが死没で話がこじれる可能性も、いちおう予想しておいて損はない)。

 で、つくづく思うのだが、なぜこんなに面倒な「借地」というものがいまだにあるのだろう。借りる側には、気楽でいいという人もいるかもしれない。だが貸す側のほぼ全員には「いったん貸したら自分たちの自由にはならない(←家屋が建っていて人が住んでいるから)」というリスクは常にある。旧借地法と現在の借地法(1992年から施行)では、現在のもののほうが大家にやや自由度を高くしているらしいけれども、やはり「土地ごと売ったほうが楽」という話になるのではないかと思う。

 上述の新築家屋の件でかなりショックだったためひさしぶりにこうして検索して借地法をおさらいしてみたが、貸したらいつ自分たちのものとして返ってくるか予定が立てられないという意味では、わたしはやはり「土地ごと売っちゃえばいいんじゃね?」という気持ちと、なぜいまだに売らずに貸す大家がいるのかの疑問が拭えずにいる。

「子持ち様」という言葉を知った

 検索したところ数年以上前から掲示板などで使われているようだが、「子持ち様」という言葉を今日になって知った。きっかけはこちらの記事( → 2023.04.21更新 毎日新聞 スープストックトーキョーが離乳食を無料提供 SNSに心ない反応)。

 駅など人気のエリアで見かけたことがあるSoup Stock Tokyoだが、入店したことはない。安くはなさそうなのにそこそこ混雑していて、みなさんそんなにスープが好きなんだと思っていたが、どうやら独特の雰囲気(ひとりでも入店しやすく、おしゃれ)がその人気の大きな部分を担っていたのではと、関連記事を読んでいて考えた。

 いくつかの記事をネットで見てみたが…。

 同社の発表により、一部店舗で提供していた離乳食(無料)やキッズメニューをすべての店舗で導入すると知った利用者の方々が、子連れの人たちによる雰囲気の変化への懸念と同時に「無料」部分にも反応を示した。高めの価格設定でも店の空間とそこでの時間をともに買っていた方々にとっては(全員ではないが)、自分たちが落としてきた料金で繁盛してきた店が、その蓄積を従来客への感謝と還元ではなく他者の子供への無料提供につなげるのか…という悔しさになった可能性がある。

 それにしても「子持ち様」とは。子育てしている人がそんなに偉いですかといった思いがストレートに感じられる、強い言葉だ。
 自分とは違う人たちについて強い言葉を投げるのはめずらしいことではないが、今回のことに関して言えば、子育てをしている人たちが騒ぎを作ったわけではなく、店の方針でそうなったというだけである。普段から日常的に「子供が苦手」と感じてきた人もいるのだろうが、子育てをしている人たち全般への思いに話がずれていっては、何もよいことがない。

 どんな店でも、いつかは雰囲気は変わるしメニューも方針も変わる。
 自分に合わなくなったと考えたら、黙って退場してほかの店や場所を探すのが精神衛生上よいことである。これまでよいお店だった、もう利用しないかもしれないが、思い出はあるということで、次を探せばよいことである。