趣味の持続期間?

 家に数え切れないほどのボールペン、サインペンがある。たしか2018年前後ではないかと思うが、「ただひたすら、ノートになにかを書く」というのが楽しかった。どうせならノートとボールペンも増やさねばと、たくさん買った。だが最近は使っていない。やっていたのは熱心だった期間の前後を入れて、おそらく2年くらいだろうか。

 こうしたことは何度か経験している。
 これこれをやってみたいと考えて、機材または材料を揃える。だが夢中になるのは半年くらい。その前後の期間を考えれば、おそらく1年くらいやってみて、気づくといったん遠ざかっているのではないかと思う。

 昨年の初夏から今年の春まで、ある作業に参加していた。やりがいがありそうな予感、ちょっとした発見があるのではとの期待で、金銭的に考えるとほとんど持ち出しのような話だったが、やってみた。そこそこ楽しかった。ただ楽しい反面、なんでも考えすぎてしまう性分なのでつらくなることもあり、「これは春で契約が切れてラッキーかもしれない」と考えた。
 その後、継続しませんかとお誘いをいただいたが、思うところあってお断りした。

 本をほとんど読まない時期も、数年おきにやってくる。最近は電子書籍を読むことが増えてきたので実感がわかないが、Kindle等に慣れるまでは「最近ほんとに本を買っていないな」と思うことがあった。本の積み場所に困ることがあるかないか、それは切実なことだったのだ。いまは増えても減っても電子書籍なのでわかりづらい。

 さて、ボールペンとノートだ。

 すでに買ってあるし、インクが飛んでいないものも多いと思われるので、何か書いてみようか。
 前回は「何冊ものノートに、適当なページを開いて日付も何もかも無視して書き殴る」というのをやっていた。つづきをやってみるのもおもしろいかもしれない。隣のページに5年前の文章を発見するとか、自分がこれから書くことも将来の自分が読む可能性があるとか、そんな風に考えながら走り書きが楽しめるかも。

11年経つのか

 東日本大震災の年に義父が他界し、生活環境の変化による不安と認知症で日夜を問わず騒ぎまくった義母を東京に連れてきたのが、2011年7月末だった。

 その8年後の2019年7月頭に特養に入れてもらい、いまは月に1回程度わたしたちが窓越しに手を振っても反応を示さない義母。入所から3年経つのに、わたしたちはまだ義母がいた日々が頭から離れず、頻繁に「こんなことがあったね」と語り合う。

 夜の9時を過ぎたら物音を立てないようにしていたこと。自分たちが就寝前に歯を磨いてトイレに行くには、一度に出かけて階段の上り下りの音を減らしたこと。毎朝、義母が何か粗相をしていないか、ビクビクしていたこと——義母のいる部屋は台所に直結だったため、朝食の支度をする前に粗相の始末をするのは気分が滅入った。

 あの頃のことを考えると、たいていのことは耐えられる。なにせあの頃は「これがいつ終わるのか、どう終わるのか」がわからなかったから、頭がどうかしてしまいそうだった。ご近所にも相当の迷惑をかけていたはずだ。

 そして気づけば、自分たちが老後について考えなければいけない年代。先例を考えると自分はボケたくないのだが、事前に対策を講じることができるものなのか、あるいはくじ引きみたいなものなのか、そんな漠然とした不安がある。

不動産広告の「写真と実際」

 相変わらず不動産情報をチェックしている。界隈にも新築や中古がけっこう出ているが、新築はどこも同じようなデザインなので外観はあまり重視せず、間取りと方角を簡単に見るのみ。中古でも築浅のものはデザインが似通っているので、近所で見る家々と広告の写真にさほどの差違も感じず、実物がどこの家かがわかった場合も、たいしたショックを覚えない。広く写そうとしているのはすぐ感じ取れるので、実際と「広さ」が違っても、隣家との間隔がありそうに強調されていても、それくらいでは驚かないのだ。

 問題は、デザイナーズ物件や、20年以上も経っているような個性的な家。

 だいたいの住所と「どこどこスーパーから徒歩○○メートル」というのをヒントに、頭の中で地図を思い描き、Googleストリートビューで「どう考えてもこのあたりだよなぁ」と、目星をつけてから、夕方の散歩のついでに見に行くことがある。
 そんな家あったっけ、あのあたりに…? と、歩いていると、おお、このあたりか、おぉあった——あったが、違う。わー、こんなに印象が違うのか。これはほとんど別物ではないか。

 不動産は、広告を見て、実際を見に行かずに、頭で楽しむのがいいのかもしれない。もっとも、実際に資金が貯まって購入したいと思う時期であれば、そんなことも言っていられないが。 

「悪魔の赤ちゃん」(1974)

 悪魔の赤ちゃんという1974年のアメリカ映画がある。ジャンルはいちおうホラーなのだろうか。原題は It’s Alive (生きている)であり、生まれた直後の赤ん坊が大量に人を殺して回るという話だ。

 子供のころにテレビで放送されていて、なにかがとても印象に残っていたため、その「なにか」が何だったのかを知るためにU-Nextで見てみたのだが、かえって謎が深まってしまった( → U-Next 「悪魔の赤ちゃん」

 以下、ストーリーの大筋。

 11歳の息子がいる平和な上流家庭が舞台。ひさしぶりに子供を持つことになった夫妻が、陣痛が来たので夜間に病院を訪れるところから物語がはじまる。息子は知人宅に預け、数日間はその家から学校に行くなどの世話を頼むことに。

 やがて病院に到着するが、妻の体調が思わしくない。分娩室にはいる前から「前回と違う」をくり返し、「痛みがひどい」と不安を口にする。やがて分娩のため医師やスタッフに囲まれるが、痛みを訴えつづける。医師は「大きなお子さんのようで、4〜5キロあります。引っぱります」とのこと。

 その後、スタッフ全員が惨殺されてしまう。駆けつけるが唖然とする夫。生きているのは妻のみだが、おそらく麻酔かなにかの影響で目撃していないらしく、うろたえている。
 妻は「わたしの子はどこ」と叫びつづける。姿の見えない自分の子が誘拐されたものと考えた夫だが、やってきた警察官らは「逃げ去った天井の穴の大きさなどから、子供が全員を殺してそのまま逃げたと考えるのが妥当」と判断。そんなばかなと思う登場人物は作品内には誰もいなかったようで、あっというまにその話は地元メディアに伝えられ、世間の知るところとなってしまった。

 子供を預けている知人がテレビもラジオも遠ざけてくれて、まだ何も知らずに過ごす上の子供。だが夫妻には情報を得ようとやってくる人間があり、さらには今回の件と関係があるらしい製薬会社(妻は薬をずっと飲んでいた)も登場。子供の身柄を自分たちに渡すよう、書類にサインを求める。

 そうこうするあいだも新生児は界隈で殺しまくるが、早くから夫妻の家を突き止めていて、こっそり自分の母にも接触を図る——

 見終わっただ、なぜこの映画が記憶に残っていたのかは、よくわからなかった。

 謎のままで終わったこと。

○ その子供は、人を殺してどうするのか(襲って喉のあたりに傷を付けているが、別に食っているわけではない)
○ 生後1日で実家を突き止め両親の顔を認識しているが、とてつもなく知的なのではないか。いったいどういう薬の作用でこんなに頭のよい子が生まれるのか。

○ その新生児の父親は感情をほぼ顔に出さない演出で、生まれてくるのを楽しみにしていたはずなのに自分の子供が大勢を殺していると言われて疑問を呈すでもかばうでもなく、ふてくされているかのような表情。その子供が殺されても仕方ないと考えているような言動もある。だが中盤以降でいきなり(ほんとうにいきなり)子供に愛情を感じたようなシーンがあった——というのに、さらに最後の最後で、予想外なことをする。

 この映画が作られた70年代は、まだ60年代に世を騒がせたサリドマイドの薬害事件を記憶する人が多く、こんなに曖昧な設定でも「薬を飲んでいた」だけで人がなんとなく察してくれるという考えがあったのかもしれないが、それにしても、説明が足らなすぎるように思う。

 だがわたしがこの話をすると、映画を見ていない家族は「B級だから、そこまで考えなくてよいのでは」とのことだった。そうなのかもしれないが、何やら釈然としない。

「もらったものは返す」発想

 子供のころは、テレビも小説も大好きで、なにか「この話いいなー」と思うと、似たような感動を生むものが自分にも作れないかと文章をノートに書き殴ったが、書いていて自分でわかるくらいに元ネタが透けて見えた——つまり、何の話のどこのシーンがよかったから同じようなのが書きたいという狙いが、はっきりわかるほどの二番煎じだった。あとから思うと、恥ずかしいものが多かった。

 感動したら感動したままでもいいのだろうに、なぜ「こういうものを自分でも書きたい」と思いつづけてきたのかは、わからない。もらったものは返す、自分でも人に同じようなものをあげるという考えが、なぜかずっと染みついたまま育って、いまに至る。

 だが最近、自分は消費型の生活を送り、おもしろそうな軽いものを読んでは、そこで終わりにしている。同じようなものを作りたいという気持ちはわかず、あるいは気持ちがわかないで済むような軽いものを選んで読んでいるのかもしれないが(そういう発想はそれを書いた人たちに対して失礼かとも思うが)、自分が何かとても軽い存在になっているような気がしてしまうのだ。

 せめて感動したら「よかったですよ」と素直に本人に伝えられる性格であれば、同じようなものを作って誰かに見せようかと、まわりくどい方向で時間を使い、軽い挫折を味わいながら生きることもなかったのだろうが、どうもわたしは人づきあいが苦手である。

Pikmin Bloomをインストール

 そういえば数日前に知人から招待状が来ていたピクミンブルーム。話には聞いたことがあったが、まったくやったことがない。迷っているうちに家族が先にインストールしたようなので、わたしも数日遅れてインストール。

 うっ…。

 …歩くゲームだった。
 歩かないと、あまり意味がなかった。

 インストールしたのが夕方。今日は昼までけっこうな雨で、午後は出かけるタイミングを逸してしまった状態。さらにインストールした時間が時間なので、ゲームのために歩くわけにもいかず、初日はほぼ何もせず。

 ポケモンGoもそうだが、出かけるきっかけになると思うので、両方やってみようかと思う。

マルエツの Scan & Go で、疑問

 めずらしくScan & Goのレジに先客がいて、なかなか動かなかった。たいていは、カゴをカメラの前に置いて、入力してあるデータで「会計」を押し、会計が済んだらQRコードをカメラに見せて終わるのだが——何かトラブルでもあったのか。もしや大量の会計を、買い物しながらではなく、その場で読みこみしていたのか。

 少し待っていると、ようやく会計の手続きが終わったようだ。やっと動くのかと思ったら、そのとき。

 …女性が決済のタブレットを子供に渡し、自分だけはカートを押して歩いていってしまった。いや、待て、それでいいのか? 

 わたしはずっと、決済したQRコードをカメラに読ませるとき、同時に商品のカゴも一緒に撮影するシステムなのだろうと思っていた。だがその子供がタブレットのコードをカメラにかざすとき、母親らしき人はすでに彼方へ。あれでは、空っぽのテーブルとQRコードを撮影ということに、なりはしまいか。

 それでもとくにエラーにならなかったようなので、あの商品カゴを撮影するカメラがどういう役割なのか気になってしまった。

 もしや、撮影していないのか? 映しているだけ?
 あるいは、瞬間的な撮影ではなく、録画?
 真横に係員が常駐のカウンターがあるため、不審な行動への抑止力になると考えている…?

 不思議である。

シャトレーゼが、中野ブロードウェイに

 ブロードウェイの1階、カフェMiyamaのあった場所(不二家の向かい)に、シャトレーゼができたらしい。以前はこまめにチェックしていた「開店閉店」の情報をひさびさに読みに出かけて、さらに食べログで確認した。同時に阿佐ヶ谷駅のタリーズが7月末で閉じることも知った。

 最近このブログの掲載日付が実際の記入日付と半日以上異なっている場合があり(翌日に書くことが増えてきたため)、内容が薄くなってしまうこともあり、どうしたものかと考えている。以前はこのブログのほかに複数のものを毎日書いていたのだが、最近は毎日書くのはここだけになってしまった。それでも分量が減っている。

 以前のように、思いの丈をガーンッと書くぞという気概は、はたしてもどってくるのだろうか。

さくらインターネットのサーバ移行ツール

 先日からチャンスを狙っていた新サーバへの移行ツールで、申し込みボタンをやっと押せたのが、7月22日の未明。(さくらによる説明の詳細はこちら → https://help.sakura.ad.jp/rs/2756/

 7月13日にいったんツールが公開になり、最初の数日は混んでいるだろうからと遠慮していたら、なんと7月15日から7月19日までメンテと表示されていた。そこでメンテ明けの日に、昼間はどうかと思ったので夜に移行ツールを申し込みしようとしたが、希望者多数のためお待ちくださいの表示。

 そこで7月22日になってまもなく、ふたたび見てみると、押せるようになっていた。押すと引っ越しをしてくれて、データベースも引き継いでくれるのだが、いちばんの注目点としては「WordPressの設定ファイルはよほど深い階層にでも置いていなければ勝手に書き換える」とのこと。つまりデータベース番号が変わっても自分で何もしなくていいのだ。
 これがWordPress以外だとそうもいかないのだろうが、シェアが高いものはこういうときに有利である。

 夜中に申し込みをして、その後に外側から一般的な画面を見たかぎりでは、WordPressは動いていたように思う。それ以外の場所も、とくにメンテ中のような表示が出ることもなかった。明け方までにすべてが終了したようで、さくらインターネットからのお知らせメールは開始から1時間〜2時間くらいで届いていたようだ。

 PHPもモジュール版が使えるよういなったし、以前のわたしなら大喜びでいろいろなソフトを試したのだろうが、最近ちょっと頭がDuolingoでいっぱいなので、もう少ししたら、なにか考えてみるとしよう。

新型コロナ感染者数の増加で

 2020年の段階からずっと、新型コロナをインフルエンザ並みの扱いにしたら医療が逼迫せずに済むという意見がある。最終的にはそういうのが理想ではあると、多くの人が思っていることだろう。わたしも(最終的には)そうなるのだろうと考えてきたが——いまの状況では無理だろう。

 もっと一般の人にアクセスしやすい距離に薬があり(←受診可能な医療、入手手続きの両方の意味での「距離」が近い)、軽症者はすぐにそれらを一般的なクリニックや薬局で手に入れられる…という状況が整ってからでないと、現状で放り出されたら、知識、コネ、カネのある人のみが有利になり、情報入手が困難な人、自分の足で動き回れない人が、とことん不利になる。

 一般の人(とくに軽症者)が日常的なクリニックで相談し、必要に応じて薬が処方されたら、重症者向けの医療にもう少しの余裕ができるはずだ。だから一日も早く、まずは内服薬の手配を充実させるべきではないかと考える。