「終わらせ方」ばかりを、つい考える

 つい数年前まで「これをやってみたい」という何らかの強い思いが湧きあがることは頻繁にあった。
 たとえば資格試験の勉強をしたこともあるし(いちばん最近のものについては落ちた)、ウェブサイトをそっくり作り直したことも何度もあるし、バウムクーヘン関連で企画をしたり人に会うイベントといったことも、2011年前後からコロナ禍ころまでは考えていた。

 だが最近、悪い意味ではなく「もう終わりの時期にさしかかっている」と考えてしまいがちだ。語学は好きだし現在も12カ国語を学んでいるが、語学を自分の人生のメインに据えて考えることは、これまで以上に困難である。なにせAIがすごい。ちょっとした翻訳や音声の聞き取りならば速度が違う。精度も上がってきている。自分はもはや語学は趣味と割り切り、気楽にAIと遊ぶ側でいいと、かなりまじめに考えている。

 そしてこれまでの親世代や周囲の人々を見てきて「60代以上になったら、何もかも面倒になる」というのは、自分にとってもあり得ることだ。もともと引っ越しは嫌いだが、この先はもう、できれば1回で済ませたい。最終的な場所が見つけられることを祈っている。本人たちがそう思っても体の自由が制限されてくれば、誰かの手で(たとえば医療機関や福祉サービスの判断により)どこかに移動させられてしまうこともあるのかもしれない。だがもう、引っ越し先を考えることも荷造りをすることも、「1回で終わらせたい」ばかりを願う。

 こんなことばかり考える日々のはてに、実際に引っ越し先が決まる日があれば、そのとき自分はどうなるのだろう。新たな「終わらせ方」を考えて突き進むのだろうか。

 とりあえず、たまに白身魚ののり弁が食べられて、好きなときに珈琲が飲めて、語学をやったりネットの記事が読んでられる状況であれば、わたしはそれを幸せと思う。