日本語における「呼び捨て」

 昨日こちらに書いた「呼び方」の話で、思い出したことがある。

 数十年前、わたしの子供時代のことだ。学校の先生が「呼び捨てはいけません、呼び捨てをされたことがある人は、した人の名前を、先生(←つまりしゃべっている教師)に教えてください」と、授業中に言った。

 そのとき、近くにいた同級生が、ここぞとばかりにわたしを指さした。…おい、またその話か。何週間も根に持つようなことだろうかと、ほんとうに驚いた。

 経緯はこうだ。その数週間前、同級生(仮にK実とする)が、緑っぽい帽子を頭に乗せて、おどけた様子でピョンピョン跳ねていたことがあった。たしかそのときも授業中で、何かのものまねをしてみようということだったのだと思う。わたしはK実がカエルのように跳んでいると思ったので「あっ、K実ガエル!!」と呼びかけた。

 途端にK実が真顔になり、「呼び捨てにした。ねえ、いま呼び捨てにしたよね、したよね」と、ずっと言いつづけた。へぇ、じゃあナニか? K実さんガエルと呼べばよかったのか、K実さまガエルか、アホじゃないか、と。

 この話を、上述の「呼び捨てにされたことがある人」のときに、ふたたび持ち出したのだ。
 教師は得意げに、名前が出た生徒たちを黒板にチョークで書いていく。わたしの周囲に何人か同級生がやってきて、K実とわたしを見くらべながら「ほんとに?」と言う。わたしは答えなかったが、K実は何度も「そうだよ、ねえ? したっていいなさいよ」と。

 数十年経っても思い出す。

 こんな例は山ほどあったが、K実の親がなぜかわたしの親と仲がよかったので、一緒に遊ばされることが多く、離れることができなかった。自分の親には話したが、嫌なことははっきりそのときに言ってしまえばいいと言うばかりで、親同士は仲良くするのをやめないようだった。それでまた一緒に遊ばされた。
 もっとも、K実の親はそれほど嫌な人ではなく、わたしがK実に意地悪されたことにあとから気づいて、K実を叱ったこともあった(←ただしそのときのオチが「謝ってから一緒に遊びなさい」だったので、うれしくなかった)。

 いまの学校教育はどうだかわからないが、呼び捨てした/しないで、黒板に名前をいちいち書かれたあの時代は、ほんとうに子供に対して無神経だったと思う。小中学校時代に嫌なことは多かったが、当時は「そういうものだ」と思って自覚しきれていなかった嫌なことは、思い出すたびにあとから増えていく。

 呼び捨てについて、いまの教育ではどうなのだろうか。そんな「呼び捨てはだめ」の子供時代を送ったせいで、英語圏の人と話すときにも、「さん」などが付いていないと落ち着かないし、自分も相手にそれを付けて呼びたいと考えてしまう。