「アメリカといえば、銃」

 アメリカでは、いたましいことに、学校を標的にした大量殺人が止まらない。昨日今日にはじまった話ではなく、数も被害者も増えている。今回はテキサス州で18歳の容疑者(現地で死亡)により小学校が襲われて、児童や職員が殺害された。

 こんな詩を見つけた。2016年のツイートだ。

 イギリスといえば、紅茶。
 フランスといえば、熟したブリー。
 ギリシャといえば、ずんぐりとしたオリーブの木。
 アメリカといえば、銃。

(韻を踏みながら、同じように書かれていく)

 悲しい詩だが、実感がこもっている。わたしにとっても、アメリカ本土に旅行したことのない理由のひとつが、銃犯罪だ。これまで数回しか海外旅行をしていないが、イギリス、フランス、アイルランド以外は、グアムに出かけたのみである。アメリカ本土を考えるとき、どうしても銃が頭に浮かぶ。

 日本に銃犯罪が少ないのは、違法な手段を除いては、めったなことで「買えない」という理由が大きいだろう。刀をはじめ武器に関しては、日本の国民は「所持しない」という下地ができているし、規制があるかぎり今後も従順でありつづける。
 それは何百年も前から為政者による刀狩りがあったほか、武士制度が公式にはなくなった明治以降で、所持しつづける手続きが煩雑になったこともあるだろうし、さらに戦前戦後の混乱により、家宝など芸術品を含む刀や銃器そのものが散逸してしまい、わざわざ煩雑な手続きを経て新たに似たものを入手する人が激減したことが、大きく寄与しているものと感じる。

 つまり「犯罪に使われることが多いから銃の所持をやめよう」という流れにこの数十年さらされているアメリカの国民には、江戸以前からの下地がある日本のような状況は、なかなか実現できないし、世論も形成されにくいという差がある。無理やり規制し、奪おうとすれば、かなりの抵抗が生じるはずだ。

 理想論を書いてしまえば、小さな街から「銃なし」を開始し、その範囲を拡大して「都市」、「州」に移行していって、最終的には国全体から銃をなくすという考えもあるだろうが、それには早くて数十年かかるだろう。おそらくは、もっと。

 アメリカの銃犯罪ができるだけ早く減ることを、心より願っている。