「山河」を考えた半日

 昨日、たまたま日系アメリカ人の方からロサンゼルスの和菓子店「風月堂」について教えてもらい、その和菓子店の話のみならず、100年以上もつづいている日系人の小売店と、アメリカでの日系人社会に関する思いを新たにした。

 日系人には日本に複雑な思いをいだいて暮らしている人も(全員ではないが)いるはずだ。

 たとえば第二次大戦のとき日系人は、子世代ならばとくに生まれが米国であり市民権を持っていたにもかかわらず、家族らとともに強制収容所に入れられた。そうした差別や戦後もつづいた苦労から、日系人という自らの立場を米国社会に希釈させていくかのごとく、日本人や日系人以外と婚姻して家庭を持つ人も多いらしい。
 日本人に混じればアメリカ人と言われ、アメリカの中では日系人として扱われることもあり、落ちつかない気持ちになることもあるはずだが、そういった方法でアメリカ社会内部に溶けこむ(薄まっていく)ことを選んだ人もいるのだろう。

 そんなことを考えていたら「山崎豊子が原作の80年代のドラマ(日系アメリカ人の戦中戦後を中心に描いた作品)は、なぜに『山河燃ゆ』というタイトルだったのか」と、気になってしまった。
 検索してみたが、もともとは原作の通りに「二つの祖国(Wikipedia)」で話が進んでいたようだが、米国の日系人らからタイトルへの不快感や抗議が寄せられたことによる変更であったようだ。

 そこで「山河とは、杜甫の春望に出てくるあの『国破れて山河あり』だろうか」へと、検索対象が飛んだ。春望については、こちらに解説がある → マナペディア: 杜甫 『春望』の書き下し文と現代語 (五言律詩・対句の解説)

 戦によって何もかも失われても、山と川はあった——という五言律詩(5文字 x 8行の詩)である。

 つまり「二つの祖国」に代わって、「戦で何もかもなくなり、山や川すらも燃え尽きて跡形がないほどだ」という意味合いの作品名を選んだということなのだろうか。それともほかに何か参考にすべき表現があるのか。いまのところは思いつかない。

 そんなことを考えながら、ついでに「山崎豊子の本やそれを原作にしたドラマは重厚だな」と思い出していた。そういえば80年代は日系アメリカ人や歴史的に有名な国際結婚を題材にした話が多かったよな、などと、ドラマ「オレゴンから愛」まで思い出しつつ、時間を過ごした。

 すると半日ほどして、今度は別件で、漢詩について質問がやってきた。

 漢字が長く表示されている写真が添付され「これは文章か、詩か」という内容だったが、5文字単位で4行ならば「五言絶句」というんだよと、半日前まで忘れていた内容をさもずっと覚えていたかのごとく、どや顔で返事をした。

 こんな風に、関係のないことを調べていたつもりでも、なぜかすとんと落ちついて1日が終わるようなことが、たまにある。そして何やらよい日だったように感じる。

 明日もいい日でありますように。